『ダイバーシティ』について、考えたことを書いたら、著者の山口一男さんから丁寧なコメントをいただいた。感激である。そして、Chabo!本でもあるので、Chabo!のブログにこのブログを紹介する文章も寄せていただいている(ここ)。重ねて感激である。いただいたコメントを読んで考えたことをコメント欄に書こうかと思ったが、長くなりそうなので、ここに独立させておく。
山口さんは、本書に出てくるファンタジーや教育劇を指して「(非常に)論理的」と感じた私に対して、
多様な人びとがその多様性・個性を損なわずに対話ができるための共有基盤の一つに対話が論理的であることがあげられる(全文はここ)
と言われる。そして、
もう一つダイバーシティに大事なのは異なる他者への共感力だ
とも言われる。
そこで、論理力と共感力について「他者理解」と「自己理解」の観点から考えてみた。私見では、論理力は相手に自分のこと(主張、人柄、思考パターンなど)をより実際に近い形で理解してもらうための力(発信力)であり、共感力は自分が相手のことを理解するためのツール(受信力)ではないかと思う。
もちろん、この2つは互いに相補的な関係であり、相手の論理を理解するためには論理力が、自分に対する相手の共感を引き出すためには共感力が必要とされる。そして、相手に自分を理解してもらうためには、自分が自分を理解していること、つまり、自己理解が前提となるのだろう。それは、あくまで常に仮説なのだと思う。というのも、自己理解のためには他者とのある程度の深さをもったコミュニケーションが不可欠だと思うからだ。その時点での自己理解が、別の他者との対話によって、さらに進み、仮説としての自己が棄却されたり修正されたりする。これは、他者理解への努力においても同様のことを行っているように思う。
この他者とのコミュニケーションには、直接的な人間関係も含まれるが、著作や創作を通したものも含まれる。ICTの発達した社会であれば、同時代に生きる著者とは今回のように直接やりとりをする機会に恵まれることもあるかもしれないが、先の時代を生きていた人との対話も残された作品を通して可能である。このようなことはすでにいろいろな方が書かれていることだが、実感を伴って「わかった」ような気がする。
とある人を理解しよう理解しようとたくさんの質問をして回答をもらって、でもわからなくて、さらに質問を繰り返して…と努力をしたが、結局、あまりよくわからなかったことがある。しかし、自分のことについてはいろいろな理解につながった。このことで発見したのは、「その人を理解しようと努力したことは、結果的に自分のことを理解しようとした努力であった」ということだ。
フランスの思想家の誰だったか、曖昧な記憶なのだが、「あることを理解できるためには、2つ以上の物事の『差』によって、である」という趣旨のことを言っていたような気がする。個人内での理解にも、個人間の理解にも通じるのではないかと、勝手に思っている。
ダイバーシティの重要さは、自分と違うものを排除しないで平等に扱うといった正義の問題であるばかりでなく、自分と異なるものとのふれあいによってこそ、自己理解が進み、「自分が」豊かになるということではないだろうか。この「自分が」は、「自分たちが」や「自分たちの社会が」「自分たちの国が」などに置き換えてもよい。
もしそうならば、ダイバーシティは他者肯定であると同時に自己肯定でもある。他者のために寛容になるのではなく、自分のためにダイバーシティは確保される必要があるのではないだろうか。
異なるものをできるだけ実像に近い形で理解するためには、ゆっくりと時間をかけたコミュニケーションを必要とする。第一印象でその人の「キャラ」を決めつけ、決めつけられた本人もその「キャラを演じる」ことで成立するような人間関係だけがあればいいと考える人は少ないと思う。しかし、時間的にも精神的にも余裕のある生活ができる環境を確保しなければ、効率のみ最優先の発想は、人間関係にまでも波及してしまう。もしかすると、ダイバーシティは長時間労働と対立し、ワーク・ライフ・バランスと親和的な概念なのかもしれない。
「風が吹けばおけ屋がもうかる」式に言うならば、人びとの論理力を集団として底上げすれば、戦争や対決をなくし平和を実現する。なんて、あまりに素朴すぎるだろうか。ダンバーシティを実現していくことは、自分と違うものを怖がる人間の傾向とも向き合わなければならないかもしれない。それも、OJTによって乗り越えるしかないような気もするが。
ダイバーシティは実現すべき目標であると同時に、そのための前提条件にもなっているとも言えるかもしれない。
う~ん、ごちゃごちゃです。うまく整理されたら、また書くということで。
最近のコメント