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散歩の収穫。

  • こういう色もよいですね。
    散歩をしていて見つけた風景や動植物を記録しておくアルバム。不定期だけど、できるだけ更新を目指す。コメント歓迎。

田舎の風景

  • 東京に戻ります。
    2008年9月8日~11日までの、田舎での時間。

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2008年7月の41件の記事

2008年7月31日 (木)

油断するとすぐにぐちゃぐちゃ。

 あんまり好きじゃないことは積極的に取り組む意識をもちにくいのだけども、私の場合、片づけがそれ。しばらく、そういうことを考えずに暮らしていたら、さすがにちょっとこれでは人の住まいではないのではないかと思うくらいになっていることに今日気がついた。もっと早く自覚すればいいのに、自覚しにくいシステムになっているらしい。

 ひとまず、机の隅に積み重ねている書籍を机から取り除きたいのだけども、そうすると、本棚に収納することになる。が、そうすると、本棚からは別の場所に移動しなくてはならない本が出てくる。これをどうするか。机上だけでももう少し広くしようと思うものの、こういう風に片づけは部分だけにはいかなくなっていることがやっかいである。

 以前から持っている本を再度読むことにして、それがどこにあるのかわからずに困っていたところ、どこにあるのかを思い出した。そしたら、一緒にあった本も出てきた。

 そんなこんなで、本であふれかえっている部屋をどうすればいいのか。

 この惨状を写真に撮って公開したいくらいだが、とてもできない(笑)。あ~。

2008年7月30日 (水)

桃とさくらんぼ。

Dscn0163

 今日は桃が送られてきたので、いただきました。

先日は、さくらんぼがお努め品になっていたので、いただきました。

どっちも形が似ています。白桃と桜桃だから、親戚だし。

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勝間和代さん、企業とNPOの子育て支援協働推進セミナーで講演なさる。

 ここで書いたように、本日は標記の講演を聞いてきた。(社)フィランソロピー協会のサイトで見つけたので、ここだけが主催かと思っていたら、(財)こども未来財団だった。厚生労働省、東京都、東京商工会議所などさまざまな機関・団体が後援している。なぜか、エコバッグを配っていた。

 客席はほぼうまっていたかと思う。申込自体も定員に達していたらしいので、盛会だった。2階席も座っている人がいたので、ホールの定員250とまではいかなくても200名は超えていたのではないかと思う。
 参加者は、見るところ、勝間さんよりも上の世代の方が多かったように見えた。女性センターでの講演にしては、男性の姿も多く見えたが、何割くらいかということまでは観察できなかった。

 勝間さんの講演は、いつものようによく整理されており、話もわかりやすく、聴いているほうもときどき笑いが起こるくらい。正味50分の講演のうち途中からみなさんが引き込まれていることがわかった。

 演題は「長時間労働からの脱出」だったのだが、要はワーク・ライフ・バランスをどう整えていくかに関して、ワーク・ライフ・バランスがなぜ必要かと、それを実現するには具体的にはどうすればよいかについて。示唆に富む内容だった。

 印象に残ったことば

「人口はこの先減っていくことが決定しているので、人口減にあった制度設計を考えなくてはならないが、人口が減り続けることをそのままにしておいてよいということとは違う」(趣旨)

「生産性の高い社会」のコツは、お金と時間を「浪費しない」で「投資を惜しまない」こと。

市民が声を上げることが大事

私たちの時間・お金の使い方が社会を変える(SRIなど)

一人一人ができることを地道にやっていく。その上で、「少子化対策が大事」「ワーク・ライフ・バランスが競争力を回復する」という空気を作って、企業・政府の資源の優先配分先を変えていく。あまりギスギスせずに。

 「少子高齢化とサブプライム問題の関係」などおもしろい視点だと思った。

 最初から、勝間さん講演とこども未来財団委託調査報告を聞いたら帰ろうと思って参加させてもらっていたのだが、冷房が効き過ぎで耐えられなくなり、報告の途中で出てきてしまった。冷えがひどくなると不妊の原因にもなるというのに、この室温に対する感覚ってどうなんだろうと冷え冷えしつつ思った。「少子化対策には、冷え対策も」と私は思う。

2008年7月29日 (火)

また、氷室冴子さん。

 ここにもここにもここにも書いたが、また、氷室冴子さんのこと。

 7月25日付朝日新聞夕刊(ここ)によれば、自分の葬儀の準備まできっちりしておられたというのが、この記事での新しい情報。なつかしい作品の一部を挙げておく。

なんて素敵にジャパネスク (集英社文庫―コバルト・シリーズ)

多恵子ガール (集英社文庫―コバルト・シリーズ)

なぎさボーイ (集英社文庫―コバルト・シリーズ)

自費出版は、残念。

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 興味深い新聞記事を見つけた(ここあるいはここ)。社会学者で歌人の鶴見和子さんの看取りの記録『鶴見和子病床日誌』を自費出版されたそうだ。

「死にゆく人がどんな歌を詠み、何を考え、何を思って死んでゆくのかを、あなたは客観的に記録しなさい」。

 このように妹に告げ、記録をとらせた。

 その後の俊輔さんとの会話を内山さんは忘れることができない。

 「『死ぬっておもしろいことねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」

 俊輔さんとは、和子さんの弟である。

「『お姉様よくがんばられました』といったら、『ハイッ』。これが最期のことばです。がんばったんです、姉は。よく生きたひとのよき死でした。それを子や孫に伝えたい。兄に選んでもらって親交のあった方々にも、と。それが出版の動機です」。年譜や内山さんのエッセーなどを含めて約230ページ。私家版として500部刷って、近親者らに贈る。

 自費出版は、残念である。一般に出版されたのなら、ぜひとも読みたいと思うのに。

2008年7月27日 (日)

『論争 日本のワーク・ライフ・バランス』、あれこれ。

論争日本のワーク・ライフ・バランス

 出版情報をキャッチしたときから、読みたいと思いつつやっと読むことができた。本書は、(独)経済産業研究所(RIETI)主催のRIETI政策シンポジウム『ワーク・ライフ・バランスと男女共同参画』の内容をもとにまとめたものである。

 政府が「ワークライフバランス」の語を頻繁に使いはじめたのが、ここ1,2年である(「ワーク・ライフ・バランス憲章」の策定は2007年)から、一般には、まだ言葉の意味の理解が十分とは言えない。それでも、言葉の認知はそこそこあると思っていたのだが、先日発表された内閣府の調査結果(2008年7月25日付読売新聞朝刊ここ)は、私には驚くものだった。なんと「名前も内容も知らない」人が6割(60.1%)もいたのだ。そして、「名前は聞いたことがあるが内容までは知らない」は26.6%、合わせて9割近く(86.7%)が内容を知らないのだ。昨年から今年にかけて、この語をタイトルに掲げた書籍が続いて刊行されていたため、私はもっと認知度が高いと思っていたらしい。

 本書の内容について書く前に、外在的なことなのだけども…。
 その分野では、第一線の研究者の方々が集まって実現されたシンポジウムの記録である。ネット書店をよく利用する立場から言えば、基本的な書誌情報だけでなく、目次を掲載するべきだろう。そのことで、4つのセッションの論者とモデレータが明らかになれば、より一層魅力が伝わり満足のいく買い物ができるはずだ。ネット書店では、amazonは今のところ、基本書誌情報のみの掲載。「なか見検索」というすばらしいシステムも導入しているのに利用しないのはもったいない。いっぽう、紀伊国屋書店ではセッション名と編者の経歴は記載されているものの、それぞれのセッションで講演した方々の名前がない。いずれも、セールスポイントを活かす販促をして、多くの読者を得てほしい。ということで、勝手に目次をここにアップしておく。

 ついでに、REITIが出している『RIETI High Light』という冊子に紹介されていた書評(ここ)もアップしておこう。治部れんげさんは、「管理職研修のテキストにしてほしい」と書いておられる。そして、「経営者層」「管理職(とその予備軍)層」「少子化問題に関心がある人」の3つに分けて読者の立場別にお薦め部分を挙げておられる。

 ところで、私がよく利用する公共図書館には、所蔵がない。最近は多くの図書館でも新刊は非常に迅速に利用できるようになっているので、4月刊行の本書が「購入はしてあるが、まだ利用できる状態にはなっていない」ということはありえない。所蔵しないことも「ありえない」と思ったので、さっそく、リクエストをしておいた。早く利用できるようになるといいなぁ。

2008年7月26日 (土)

想像力の涵養法。

 日経新聞に寄稿されている上野千鶴子さんの「人生の下り坂と要介護」と題された文章(2008年7月23日付)を読んだ(ここ)。政策決定者たちの要介護者への想像力の欠如を問題にされている。自分と異なる者への共感や想像というのはそんなにむずかしいことなのだろうか。介護の問題に限らず、いろいろな分野において、このことは指摘されているが、そのたびに、同じようなことを思っている。上野さんが指摘するように、政策決定者たちは本当に「自分はそうならない」と思っているのだろうか。いずれは自分もそうなると思っていれば、もう少しマシな政策を作るのではないかと私も思うのだが。

 想像力もただあればよいというものではない気がしてくる。なぜなら、「自分自身が要介護者になり、介護をしてくれる人が大変な思いをする」との想像はしないかもしれないが、「自分自身が要介護者になることはない」「自分自身はゴルフ場でプレイしてるときに発作的な死を迎える」「自分自身は妻や子どもたちに手厚い介護を受けられる」といった想像をしているかもしれないからだ。

 異なる他者への想像力を涵養するには、どういう方法があるのだろう。小さい頃からの教育に期待をかける議論はよく耳にするけども、成長しきった人に対してはどういう方法があるのだろうか。

 「相手の立場になって」とは言うものの、それが適切な場合とそうではない場合があるように思う。後者の場合は、たとえば、OSが違うことが理由として考えられる。つまり、「○○されれば△△の気持ちになる」と理解してもらいたくても、その人は自分が「○○されると、□□の気持ちになる」ので、他の人も同じように思うと想像するかもしれないからだ。

 これは、ここにも書いたように、まったく異なる思考パターンをもつ二者間では同じ出来事や言葉でもまったく違った意味に解釈してしまうことがあるという点で似ている。

 また、『ダイバーシティ』の教育劇でも取り上げられているような、異文化を自国の文化をベースとした解釈枠組みを用いて理解しようとすることとの共通性を感じる。

 自分の感受性を使って相手の状況や気持ちを推し量るしかないような気もするが、そこでの基準や感覚が必ずしも相手と同じとは限らない。結局、勝手に想像するだけでなく、相手からの応答も手がかりに自分の仮説が間違っていないかを何度も点検するしかないように思うのだが、それには理解しようとする意思や意欲を持っていることが前提となる。

 相手の状況を理解しなくても自分が困らない人は、多くの場合、立場が強いほうだ。相手を自分に合わせさせる力をもつために、相手のことを理解できていなくても困らなくて済んでいる。

 介護について言えば、こういう人は、たぶん、介護保険を使わなくても介護サービスを受けることができるだけの財力をはじめとするさまざまな資源があるのだろう。

 もっとも想像力をもってもらいたい人は、正しい想像力をもつ機会に乏しく、その力を備えていなくても自分は困らない。その分、周りの人が困っている。こんな状況を変えるための、有効な想像力の涵養法が知りたい。

2008年7月25日 (金)

干場弓子さんを発見。

 東京新聞5月28日付記事に干場弓子さんを見つけた(ここ)。Chabo!にも参加されている出版社「ディスヴァー・トゥエンティワン)の社長さんである。いい記事だと思う。

続・本当は教えたくないおいしいジャムとマーマレードの話。

 ここにも書いたが、今日もジャムの話。

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 「そろそろさくらんぼの時期だから、そのうちさくらんぼジャムが出ますよ」と聞いて、「まだかまだか」と楽しみに待っていたところ、ついに待望の日が来た。

 さっそく一瓶購入し、今朝はおいしくいただいた。さくらんぼジャムには、チェリー酒が入っているので、その風味が高級感を出している。

 パッチワークさん(お店の名前)では、ときどきそのときのお薦めジャムを試食させてくださることがある。さくらんぼジャムを購入した際、杏ジャムもお薦めと試食させていただいた。杏ジャムは一般には杏の果肉だけを使うのだけども、ここのものは杏の種を割って中身も使っている。杏仁豆腐で使う香料の原料である。作り手の方に聞いてはいたが、ジャムからは杏仁豆腐と同じ香りがする。その日は、我慢して帰ったものの、やはり、気になるので、買うことに。前日まであった大きいほうの瓶は売れていってしまったらしい。でも、小さい瓶を入手することができた。こっちはまだ開けていないが、明朝食べる予定である。

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 この写真は、ジャム売場の様子。お店の人に頼んで撮影した。上の左は、パイナップルバニラジャム。この組み合わせは不思議ながらとてもおいしい。その隣が杏ジャム(杏仁入り)。下の左は、苺&ブルーベリージャム。これは、春先から何度も見かけているので、原料の入手できる時期が長いのかもしれない。相手の好みがわからない場合、広く受け入れられるタイプのものだとか(私はまだ自分では食べていない。ひとには餞別にお渡ししたが)。中央は、梅ジャム。これも適度な酸味が美味。何よりもすごいのは煮てもきれいな青梅の果肉の色を保っているところ。右のはさくらんぼラズベリージャム。これもまだ試したことはないが、きっとおいしいに違いない。

 自分でもどうしてこんなに力説しているのかわからないが、本当においしいのだ。私が大変なジャム好きに思えるかもしれないが、そうでもない。

 瓶はひきとってもらえる。それも大事な点。蓋は再利用はできないそうだ。

 青山ブックセンターに行くのなら、ついでに隣の東京ウィメンズプラザの中にあるパッチワークさんにも行ってみてください。ジャム屋さんではありません。フェアトレード製品を扱うお店です。

2008年7月24日 (木)

『生きかた上手』に見る失敗観。

 本書は現在90代半ばで現役の日野原重明さんが書かれた、上手に生きるための考え方指南本とでもいうべきものである。2002年に刊行されたものだが、久々に読み返してみた。気に入った箇所を抜き出しておく。1つ目は習慣について、積み重ねの大切さを説いておられる。よい習慣を早いうちに身につけて続けていくことが結果として人生となるということだ。

人生とは習慣である

 人生は、ひと言で言えば習慣です。

 アリストテレス(前384~322)は、「習慣とは繰り返された運動」であり、習慣が人間の性格や品性をつくると言っています。

 習慣に早くから配慮した者は、おそらく人生の実りも大きく、習慣をあなどった者の人生はむなしいものに終わってしまいます。習慣は日々の積み重ねですから、それが習い性になってしまえば、その後はつらいとも面倒だとも感じなくなります。よい習慣をからだに覚え込ませればよいのです。(P.99)

 2つ目は、からだも頭も使えば使うほどよくなるという非常に前向きな主張。医師の著者だからこそ、重みがある。ここでも、続けることの大切さと、行動・実践の重要性が説かれている。

からだは休みなく、切れ目なく、使い続ける

 年をとれば、からだも頭も老化します。けれど、老化は避けられなくても、だめにしないことはできます。要するに使いかたです。使わなければ頭もからだもだめになります。毎日、休みなく、切れ目なく、使い続けることです。

 私たちのからだは、動かしながら使いながら、同時に調節したり治したりしていくことができるようにつくられています。

 健康には、何よりもよい習慣が欠かせません。いつか、いつかと頭で考えているだけではだめなのです。今日の一歩を踏み出すこと。なぜなら、健康は行動の結果です。健康は実践のなかにあるのです。

 病気を治すことに主眼を置く医学に、あなたの健康のことまで期待するのは筋ちがい。めいめいが生活になかに実践するしかありません。そう、いますぐに。(P.104)

 

 3つ目は失敗について書かれたところ。著者の前提も、「失敗は起こるもの」である。完璧であると思われ、それを期待されている医師だからこそ、そうではないことを強調されているのかもしれないが、どういう職業の人であろうとも、不完全さの自覚は必要なことだ。

まず、人間の不完全さを謙虚に自覚する

 では、ミスがなぜ隠され、なぜ減らないのかと考えていくと、どうも医師も患者さんも世間の人も、「人間はパーフェクトではない」ということをすっかり忘れているからではないかと思いいたります。

 考えてみてください。どんなに最新の医療機器、医療設備を用いようが、医療も所詮「人が人になす行為」なのです。だからこそ、そこには相手を思いやる「心」があってしかるべきですし、また反面、「絶対」や「完全」はありえない。つまり、病気を治せないこともあるし、医療上のミスも起きうるものなのです。

 私たちはどんなに努力し、注意をしていても、完璧ではありえません。それは求めても詮ないこと。むしろ謙虚に、おごらず、まずわが身を含めて、人間のいたらなさ、弱さ、不完全さを、つねに自覚することから始めなければなりません。

 科学が進歩すればするほど、その自覚は一層強く求められます。ハイテクノロジーを盲目的に信用すれば、人は油断と慢心をまぬがれません。ふとした不注意が思わぬ惨事を招くということを、2001年2月9日(現地時間)の、ハワイ沖での日本の水産高校の実習船えひめ丸とアメリカの原子力潜水艦との衝突・沈没事故で、私たちは思い起こし震え上がったばかりです。

 医療の世界で起きている問題は、実は医療にかぎらず、科学の恩恵に浴する現代社会共通の問題でもあるのです。当然、その対応策は広く共通して語れるはずです。

 そうであれば、ミスを起こした当事者を必要以上に厳しく処罰したところで、何になるのでしょう。むしろミスを隠そうとする傾向に拍車をかけるだけです。失敗こそが、未来の安全を手にするための、貴重な財産なのです。

 私たちは、この先に起こりうるすべてのミスや突発的な事故を予測することはできないのですから、おかしたミスに謙虚に学ぶよりほかありません。実は、それが最短にして最良の道なのです。医療ミスはゼロにはできませんが、減らすことなら私たちにできます。(P.134-136)

2008年7月23日 (水)

すいかの香りを抽出して、鼻に塗りたい。

 すいかでも食べて涼まないとやっていられない気持ちになってくる。世間が暑い。

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 すいかは、香りがよい。味よりも香りのほうがいいのではないかとさえ思うくらいだ。カットすいかをさらにカットしたときに立ち上る香りがいい。すいかの香りだけを取り出して売っていたら、それを買って鼻に塗って仕事をしたいくらいだ。

 まぁ、せっかくあるので、食べるけども。

京大図書館自習室24時間。

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 京大図書館の自習室が24時間利用できるようになるという(2009年1月から)。学生さんの学習意欲が高いことはすばらしいことだが、夜間は眠ったほうがいいのではないかと思う。現在は、午前9時から午後10時までだそうだが、午前6時くらいからの開館にするよう早朝に少し延長するくらいでいいのではないか。

 若くて体力あふれ、時間も豊富な一時期、勉強に打ち込むことは結構なことだが、生活習慣を崩しやすい学生生活で、健康を害す人が出なければいいがと思う。

 大学図書館が24時間利用できるのがそんなに珍しくない国もあるのかもしれないが、日本でもこれは広がっていくのだろうか。自習室のみの開放と、図書館員の配置も24時間体制というのとでは、かなり問題が違うけれども、そういう方向に行くのはあまり望ましいこととは私には思えない。

 23時頃から5時頃までは、みんな眠っていたほうがいいように思うので。

 記事はここ

2008年7月21日 (月)

勝間和代さんに学ぶ問題解決法。

 勝間さんが朝日新聞土曜版(be)に連載されている「勝間式『自分ナビ』宣言」を楽しく読ませてもらっている。最新(2008.7.19付)のものは、身近な問題を論理的に解決するための具体的手法について説明されている。題材としては「利益」が取り上げられている。『利益の方程式』を読んだ人にはなじみのある内容かも。

「サキヨミ」(2008.7.20)を見て。

 昨夜の「サキヨミ」(フジテレビ、毎週日曜、2200~)を視聴した。ブログ整理をしつつ聞いていたのと、録画もしないで一度見たきりなので、記憶違いなどもあるかもしれないが、覚えている限りで考えたことを書いておく。

 昨夜の内容は、「救急車の不適切利用」「15歳の中学生の娘が父を刺殺した事件」「原油高騰が生活に与える影響」といった3つだった。

「迷惑119番」の話題について感じたこと。

 救急車をいわばタクシー代わりに利用する人が増えてきているという。読売新聞の調査(救急車を足代わりに利用、全国で増加…読売調査(2008.6.23))によれば、「昨年1年間の救急出動件数の5割は軽症者の搬送」だとか。困るのは、第一には本当に命にかかわるかのようなコール(呼び出し)に迅速に対応できなくなることだ。もう一つは、救急搬送にかかる費用の問題。ここで初めて知ったのだが、救急搬送を1回頼むと約4万円かかるという。

 日本では救急車を利用するのに利用者は費用負担をもとめられない。そのために、実際には緊急ではないのに気軽に救急車を呼んでしまう人が出てきてしまうのではないか。現在のように無料ではなく、いくらかの負担をもとめてはどうかという話になった。無料であるのは、世界では例外的なことなのだという。そこで、諸外国の例にならって、日本でも救急車の利用を有料化してはどうかという論点が出てくる。これに対して、勝間さんは「(具体的な金額は別に検討することにしても)まずは有料化するとどうなるかやってみてはどうかと思う」と主張なさっていた。それに対して、別のコメンテーターらからは「有料にすると、救急搬送が本当に必要な人の中から、費用負担をできない所得層が排除されてしまうのではないか。自力で行こうとして手遅れになったりすることはないか」との懸念が出された。

たしかウエンツさんだったと思うが、「救急搬送にかかる費用が4万円もするなど知っている人は少ないと思う。これを知らせていけば、これまで気軽に使っていた人も自粛するようになるのではないか。少なくとも、大したこともないのに頻繁にコールをすることが、こういう問題を招いていることを(こういった番組などででも)取り上げて広く知らせていくようにすることが大切だ」とおっしゃっていた。

番組を見る前にも、この問題については新聞などでの報道を目にしたことのあったのだけども、ウエンツさんの言うように、このことはまだそんなに広くは知られていないと思う。有料化の是非の議論は必要だが、知らせることで気軽に使う人が減っていくのであれば、まずはそれを試してみてもよいかもしれない。

有料化について、「まずは試してみて、どうかを見てみる」と主張する勝間さんと、「有料化してしまうと、低所得者の人は使えなくなってしまうかも」と懸念を述べる方々とのあいだで、議論があまりうまくかみ合っていないような印象があった。それがなぜなのか、時間が短いことのほかに、おそらく、次のような前提があるのではないかと思う。

つまり、勝間さんには「試してみてダメなら、また別の方法を試すべく、すぐにでも変更したり無料化に戻せばよいのではないか(そんなの簡単)」という前提があるのに対し、別のコメンテーターらは「有料化してしまえば、取り返しがつかないことになってしまうのではないか(一度始めたことを変更したり修正したり廃止したりすることは容易ではない)」との前提から出発しているためではないか。

実際、一度決まったものを実行してみてあまりうまくいっていないからといってすぐに廃止したり変更したりすることに、私たちの社会はなじみが薄い(そういう意味では、後期高齢者医療制度は異例のことだったと思う)。施行前に十分に準備をしてはじめるのだが、実施されると「間違いが起こるはずがない」を前提にしている。変更するにも廃止するにもなぜか非常に時間がかかる。そして、失敗を失敗と認めることもできない。

勝間さんの前提は、その逆になっている。「新しい試みに失敗はつきものだ。事前に十分な準備をすることは否定しないけれども、始めてみておかしいと思えば、失敗を失敗として認め、何が悪かったのかを検証し、再度新しい計画を実施してみればよい。経験からしか学べない」というようなことなのではないだろうか。

昨夜の勝間さんの主張は、勝間さんの前提をある程度は理解している人にとっては、「やってみなければわからない。まずはやってみればよい」の含意はわかることなのだろうけれども、そこだけを聞く人にとっては、場合によっては、「そんなに簡単に言ってしまっていいのか」と誤解や反感を招きやすいのではないかと危惧を覚えた。

本当に限られた持ち時間では、十分に思いを伝えることはむずかしいと思う。前述したことは、当然ご本人もご承知だろう。

それにしても、少し前のTBS「ブロードキャスター」にゲスト出演されたときと比較して、かなり場慣れされた印象を受けた。「サキヨミ」は山本モナさんのこともあって、第2回目に冒頭謝罪(?)をするようなことになってしまったが、結果的に宣伝になったとでも思ってよりよい情報を提供してくださればと思う。

※山本モナさんについては、事情をよく知らないものの、山本さんに対する非難の声ばかりが大きく聞こえてくるような気がしている。全世界が敵のように思えるかもしれないが、そう思っていない人もここにいることを知ってもらえるといいのだが。とくに、『AERA』のインタビューは楽しく拝見していただけに、連載の中止(休止?)は残念でならない。

2008年7月20日 (日)

5ヶ月経過。

 2月にこのブログを開設してから5ヶ月が経過した。低空飛行ながら、続いていると言ってよいだろう。この間に続いていることは他には筋トレだろうか。

 ブログを開設して続けていたお陰で、言及した書籍の著者からリンク集に収集していただいたり、コメントをいただいたりする経験をすることができた。

 記事数が増えてきたので、バックナンバーも少し整理した。カレンダーにも前月の記事を見ている時にはその月のカレンダー表示があるとより便利だと思うのだけども、ないようなのだ。

 もともとなかったのだが、勝間和代さんに関する記事が結構多くなったので、「勝間和代さん」カテゴリーを作成し、関連するものは集めてみた。カテゴリーとしてMECEではないが、バックナンバーを参照するときには少しでも利便性が高まればと思う。マイナーなこのブログには、多くの場合、勝間さん関連の情報をもとめてやってこられる方が多いように感じているので。

写真を追加。

 久々に「散歩の収穫」に写真を追加した。この近辺はおもしろい建物が多いような気がしている。

論理力と共感力。

ダイバーシティ

 『ダイバーシティ』について、考えたことを書いたら、著者の山口一男さんから丁寧なコメントをいただいた。感激である。そして、Chabo!本でもあるので、Chabo!のブログにこのブログを紹介する文章も寄せていただいている(ここ)。重ねて感激である。いただいたコメントを読んで考えたことをコメント欄に書こうかと思ったが、長くなりそうなので、ここに独立させておく。

 山口さんは、本書に出てくるファンタジーや教育劇を指して「(非常に)論理的」と感じた私に対して、

多様な人びとがその多様性・個性を損なわずに対話ができるための共有基盤の一つに対話が論理的であることがあげられる全文はここ

と言われる。そして、

もう一つダイバーシティに大事なのは異なる他者への共感力だ

とも言われる。

 そこで、論理力と共感力について「他者理解」と「自己理解」の観点から考えてみた。私見では、論理力は相手に自分のこと(主張、人柄、思考パターンなど)をより実際に近い形で理解してもらうための力(発信力)であり、共感力は自分が相手のことを理解するためのツール(受信力)ではないかと思う。

 もちろん、この2つは互いに相補的な関係であり、相手の論理を理解するためには論理力が、自分に対する相手の共感を引き出すためには共感力が必要とされる。そして、相手に自分を理解してもらうためには、自分が自分を理解していること、つまり、自己理解が前提となるのだろう。それは、あくまで常に仮説なのだと思う。というのも、自己理解のためには他者とのある程度の深さをもったコミュニケーションが不可欠だと思うからだ。その時点での自己理解が、別の他者との対話によって、さらに進み、仮説としての自己が棄却されたり修正されたりする。これは、他者理解への努力においても同様のことを行っているように思う。

 この他者とのコミュニケーションには、直接的な人間関係も含まれるが、著作や創作を通したものも含まれる。ICTの発達した社会であれば、同時代に生きる著者とは今回のように直接やりとりをする機会に恵まれることもあるかもしれないが、先の時代を生きていた人との対話も残された作品を通して可能である。このようなことはすでにいろいろな方が書かれていることだが、実感を伴って「わかった」ような気がする。

 とある人を理解しよう理解しようとたくさんの質問をして回答をもらって、でもわからなくて、さらに質問を繰り返して…と努力をしたが、結局、あまりよくわからなかったことがある。しかし、自分のことについてはいろいろな理解につながった。このことで発見したのは、「その人を理解しようと努力したことは、結果的に自分のことを理解しようとした努力であった」ということだ。

 フランスの思想家の誰だったか、曖昧な記憶なのだが、「あることを理解できるためには、2つ以上の物事の『差』によって、である」という趣旨のことを言っていたような気がする。個人内での理解にも、個人間の理解にも通じるのではないかと、勝手に思っている。

 ダイバーシティの重要さは、自分と違うものを排除しないで平等に扱うといった正義の問題であるばかりでなく、自分と異なるものとのふれあいによってこそ、自己理解が進み、「自分が」豊かになるということではないだろうか。この「自分が」は、「自分たちが」や「自分たちの社会が」「自分たちの国が」などに置き換えてもよい。

 もしそうならば、ダイバーシティは他者肯定であると同時に自己肯定でもある。他者のために寛容になるのではなく、自分のためにダイバーシティは確保される必要があるのではないだろうか。

 異なるものをできるだけ実像に近い形で理解するためには、ゆっくりと時間をかけたコミュニケーションを必要とする。第一印象でその人の「キャラ」を決めつけ、決めつけられた本人もその「キャラを演じる」ことで成立するような人間関係だけがあればいいと考える人は少ないと思う。しかし、時間的にも精神的にも余裕のある生活ができる環境を確保しなければ、効率のみ最優先の発想は、人間関係にまでも波及してしまう。もしかすると、ダイバーシティは長時間労働と対立し、ワーク・ライフ・バランスと親和的な概念なのかもしれない。

 「風が吹けばおけ屋がもうかる」式に言うならば、人びとの論理力を集団として底上げすれば、戦争や対決をなくし平和を実現する。なんて、あまりに素朴すぎるだろうか。ダンバーシティを実現していくことは、自分と違うものを怖がる人間の傾向とも向き合わなければならないかもしれない。それも、OJTによって乗り越えるしかないような気もするが。

 ダイバーシティは実現すべき目標であると同時に、そのための前提条件にもなっているとも言えるかもしれない。

 う~ん、ごちゃごちゃです。うまく整理されたら、また書くということで。

2008年7月18日 (金)

高温と多湿に注意。

 この時期から、ある程度涼しくなる秋口まで、熱中症には注意が必要だ。高温でなくとも、湿度が高いとかかってしまうこともあること、室内でも油断できないことなどは、ニュースや気象情報、情報番組などで頻繁にとりあげられるようになった。このように注意喚起をするのは非常に大切だと思う。

 室温が30℃を超えていなくても湿度が高いことが熱中症を発症させることがある。それは、湿度が高いと汗をかいて蒸発熱で体温を下げることができないから。つまり、発汗によって体温をさげるしくみを利用できないことになるからだ。

 今日は職場が非常に蒸し暑く、雨も降ったりしたものだから、湿度がより高くなり、体力も消耗する日だった。他の人もだるそうにしていたから、私だけではないのだろう。

 環境に配慮して夏場の冷房の温度設定を28℃にすること自体に異論はない。この運動が推進されるまでが、むしろ冷やしすぎだったと思っているくらいだ。今でも、電車やお店が冷え過ぎていてつらいという声も聞くことが多いのだけども、せめて公共施設やオフィスだけでも冷やし過ぎをやめていくことが重要だと思う。

 ただ、設定については温度だけを見ていてもいけないのではないかと思う。というのも、体感温度(人間の温度感覚)は

人間の温度感覚は気温に左右されるだけではなく、湿度・風速・放射量の値や変化の速度や心理的な状態の影響を受ける。なかでも湿度による影響は大きい体感温度とはより)。

からだ。ということは、同じ28℃でも、湿度が40%のときと65%のときでは、しのぎやすさにも大きな差が出てくることになる。これを、「ミスナールの体感温度」の計算式で算出すると、

湿度40%のときの体感温度=24.9℃

湿度65%のときの体感温度=26.8℃

となる。2℃近く差があることがわかるだろう。

 ところで、今日の東京都心の降雨直後の湿度はおそらく非常に高かったと思われる。21時現在の千代田区の湿度は96%であるが、これで28℃だとすると体感温度はどうなるだろうか?

結果は、29.3℃である。

 これだけだとよくわからないので、たとえば明日の予想(15時・晴れ)気温32℃、湿度46%と比較してみよう。

体感気温は、28.7℃となる。

 つまり、外気温が32℃でもよく晴れていれば湿度が下がることで体感温度は28℃96%のときよりも低く快適に感じるということである。

 以上のように考えてみると、現在の温度だけを基本にした空調設定は、生活者の実感とはそぐわないものだということがわかるだろう。この室温条件での職場では能率が下がることを報じている新聞もあったが、能率だけでなく体調も崩してしまう恐れもある。すでに取り付けられている設備上の問題もあるかとは思うが、温度だけでなく湿度も組み合わせた暑さ対策をしなければ、28℃設定自体も後退していくのではないかとさえ思う。

 服装と礼儀・礼節を含めて、生活全体を28℃設定にあわせられるしくみづくりをすることが、これを無理なく続けていくためには不可欠だ。

2008年7月16日 (水)

『ダイバーシティ』。その3

ダイバーシティ

その2からのつづき)

 ファンタジーのあとには、童話『ライオンと鼠』をつかった教育劇である。舞台は著者が勤めるアメリカの大学での授業風景だ。その受講者である学生さんたちと、「ヤマグチ教授」は日米両国にある『ライオンと鼠』のストーリー展開の違いに、日米の人間関係や文化の違いを見出し、それについてのディスカッションの様子が描写されている。

 『ライオンと鼠』に国柄の違いが反映されていることはおろか、ストーリーにバリエーションがあることを、今まで私は恥ずかしながら知らなかった。簡単に言うと、寝ているライオンのからだに登れるかどうかを仲間の鼠に聞かれた鼠が「乗れる」と言って実践する。すると、ライオンに気づかれて捕まってしまう。そのとき、ライオンから逃れるために鼠がとる言動に、まず違いがある。アメリカのストーリーでは、鼠は「(自分を)食べても腹の足しにはならない。もしライオンに困ったことが起きたときには、きっと助けましょう」と説得する。そして、ライオンが罠にかかったときには「約束だから」と助けにくる。

 いっぽう、日本のそれでは、鼠はまず謝罪をする。そして、ライオンが罠にかかったときには「恩を返す」ために助けにやってくるのである。

 ここから、日米の人間関係、とくに、義理や恩、謝罪と権利などに対する考え方・とらえ方の違いがクリアにされていくところが、大変おもしろい。多くの学生さんは、アメリカのストーリーには特に違和感がないのだが、日本のそれには大きな違和感をもつ。疑問を解消しようと「ヤマグチ教授」に質問し説明してもらうのだが、そのこと自体が納得できないようなのだ。

 そこから、「恥ずかしい」の感じ方や、どういう状況に対し、何に対して恥じるのかについても、日米の違いが浮かんでくる。その整理は非常にわかりやすい。具体的には、本書を読んでもらうほうがよいと思う。

 これらのやりとりの中で、私が一番おもしろいと思ったのは、授業のライブ感覚とでもいうものである。つまり、講義型の授業では教員の予定通りに進めていくことが比較的容易にできるのだが、参加型の授業では、それが活性化すればするほど、必ずしも当初意図したようには進んでいかない場合も多い。著者も指摘されているように、「理想的には学生さんから出してほしい意見」は、期待どおりに出るとは限らないのだ。参加型の場合、ファシリテーターとしての教員の力量が高ければ、当初予定していた展開に進むことができるだけではなく、相互作用によって、意図を超えたすばらしい発言が出てくることがある。授業がそのようなものになったとき、その場を共有しているすべての人にとって、貴重な学びの時間となるということだろう。授業のライブ感覚は、対話から導かれるように思う。

 そのような知的興奮あふれる授業は、日本では、残念ながら、多くはない。それは、教員の力量の差というよりは、授業スタイルの差かと思っている。日本では、講義スタイルが多いように思う、印象なのだけど。活発なディスカッションを前提とした参加型スタイルの授業の組み立ては、単に豊富な学識があるだけでは運営することはできない。テーマの選定から、どういう手順を追っていけば意図したディスカッションを導くことができるのか、さらに、どうすれば、意図せざる発見にまで高めることができるかは、ある種のストーリー制作に通じるものがあるかもしれない。であれば、非常に論理的なファンタジーを構成される著者にとっては、このスタイルの授業をうまく計画されるも納得のいくことだ。いや、順序が逆だ。長年、アメリカの大学で授業を展開してこられた著者だからこそ、今回の論理的ファンタジーも教育劇の筋書きもしっかりとした構成力に裏打ちされた仕上がりになっているということだろう。

 「ヤマグチ教授」も含めた学生さんたちの活発なディスカッションの様子はとても臨場感があった。「こういう授業には参加したいな」と思わせる魅力ある内容だ。

 山口さんが日本の大学ではどういうスタイルをとられているのかは知らないが、機会のある人は幸運だ。

2008年7月15日 (火)

楽になってきているよう。

 ここのところ、筋トレにいって心拍数をはかると「がんばりすぎ」のところにばかり行ってしまっていて、「貧血では?」と思い、血液検査をしてもらったことはここにも書いた。

 今日、1週間ぶりに筋トレに行って、いつものように運動の途中で心拍数をはかったが、ちょうどよい拍数のところに来るようになった。30分の運動時間のあいだに、毎度3回心拍数を確認することになっている。1週間前までの数週間は3回とも「がんばりすぎ」や心拍数の目安を知らせる表にない数字を出していて、心臓は大変に忙しかったのだった。

 突然の変化ではあるが、おそらく、血液中のヘモグロビンも少し多くなったに違いない。からだは正直なもので、今日はそこまでバクバクしなかったお陰で、筋肉を動かすほうに力を入れることができた。

 漢方医の薬を再開してから3週間。順調に効果が出ているのかもしれない。

 今日は嬉しい発見だった。

2008年7月14日 (月)

『ダイバーシティ』。その2

 ここにも書いたように、山口一男さんの新刊書を予約して楽しみにして待っていた。

 土曜日の夕方、標記の書籍が配達された。どういう内容なのか、楽しみにしていた。ファンタジーと大学での教育の様子を取り入れたものだった。

ダイバーシティ

 日曜日に読了したのだが、いくつか感想を書いておく。

 まず、ファンタジーは、なかなか楽しめた。ミナという若い女性の冒険物語とでも言うのだろうか。ミナは航海士になり、ひとりで魔法使いカズのいる島に出かけていく。島についたら、場所場所に関門があって、選択を間違うとカズには会えないかもしれない。その困難を乗り越えていく話だ。

 その話の中に、社会学理論や論理学など社会科学の知識が織り込まれている。ミナは、島の住民の謎かけを論理的に解きながらカズのいる城に向かって道を進んでいく。

 普段、ファンタジーを読むことはほぼない。よって、このファンタジーが「ファンタジーとしてどうか」については、私にはわからない。しかし、旅の途中でのミナの心情には非常に共感できる部分がある。これは、私がミナに近いというようなことではなく、おそらく、この物語がもつ普遍性のためではないかと思う。それらは、社会学のテーマにもなっている。ミナの、人と違う自分のとらえ方、親に対する思い、孤独はどういう構造をもつものか、などなど、深く考えさせられることが多く、ミナの悲しみの描写には身につまされるものもあった。

 このファンタジーは、ダイバーシティの重要さについて、ミナがわかることで、読者である私たちにもそれを教える。非常に論理的なファンタジーだと思う。こんな言い方をすると、著者は怒られるだろうか。

つづく

2008年7月10日 (木)

血液検査の結果が判明。

 行きつけの漢方医で、久々に血液検査をしたことはここにも書いたが、採血してから1週間後に行きたかったのに、結局2週間後になってしまった。

 結果は、予想通り、貧血がひどくなっていた。予想よりも進んでいたので、ちょっとショック。ただし、自分の見立ては正しかったことが証明されたわけだけど。

 運動不足でもないのに、どうしてこんなに心拍数があがりやすいのかと考えていて、貧血のせいではないかと思っていたら、正解だったのだ。

 やはり、漢方薬も飲んだほうがよいことになって、処方してもらった。他を知らないのだが、多くは製薬会社(ツムラなど)のすでに分包されたものをもらうようだ。この漢方医では、調合自体もそこでやる。で、ひとりひとりの状態をよく見て、調合も量も調整してくれるので、本当によく効く。

 漢方は、効き目が出るのに時間がかかる、という俗説があるが、本当にその人にあっているものであれば、すぐに効き目が出ると思う。私は以前に飲み始めたときに、すぐにからだが反応して驚いたことがあるのだ。

 そういうことで、今から、漢方再開(笑)。貧血も改善して、心肺機能をあげたいものだ。筋トレだけではダメらしい。おそらく、貧血の改善で筋トレの効果も大きくなっていくと思う。

2008年7月 9日 (水)

段ボールをたたんで出す。

 4つ分くらいを、朝の回収に出すことができた。結構すっきりした。

 こうやって細々とでも、家から不要な物を外に出すようにしていけば、どんどん不用品が溜まっていくということにはならないんだろうなぁ。

 来週も、ゴミ捨てと資源ごみの回収に励みたい。

2008年7月 8日 (火)

朝からずっと降っていた雨がやんだみたい。

 今朝は目が覚めてからずっと雨の降る音を聞いていた。だから、外も暗かったのだけど、さきほどから明るくなり雨の音もしない。今度はくっきりと晴れてきた。

 せっかくなんで、筋トレにでも行ってこよう。実は昨日も夕方に行ったのだけど。現在はひと月に1回の測定期間になっていて、最終日だった昨日は、成果があった人に羨望のまなざしが向けられていた。

 図書館に予約していた図書も用意できたようなので、引き取りに行こう。昨日は月曜で休館だったので。

2008年7月 7日 (月)

廃棄はしないというけれど。

 ここに書いたように、大阪府が改革として府立施設を縮小・廃止しようとしている。大阪府労働情報総合プラザ・大阪社会運動資料センターもその対象にされている。大阪社会運動協会が提出しました知事への「要求書」に対し、府知事からの回答(ここ)が来たようだ。

 それによれば、労働情報総合プラザは廃止されることになっても、貴重な資料は廃棄することはないという。少し安心した。

 しかし、施設を廃止してしまって、どうやって、労働情報を提供していくつもりなのかがよくわからない。

 今後も、この問題の行方を気にしておきたい。国際児童文学館の廃止問題もある。財政が厳しい折、これまでと同じような運営方法では無理だということは理解するのだけども、将来に禍根を残すような廃棄や処分は、絶対にしてはいけないと思う。

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その4

P.220

 しかし筆者としては、超長期にわたる不変の流れという事実は、むしろそれを変えることが適切なのかどうかを、我々日本人に問いかけているとも考えたい。もちろん、子どもを持つということは、人々にとって確保されるべき基本的な自由の一つであり、子どもを持ちたいのに、何らかの社会的な要因によってそれが困難になっているのであれば、当然、対策が講じられてしかるべきである。したがって、託児・保育体制の整備や労働環境の改善がそのために必要なのであれば、早急に対応すべきだろう。

 しかし、政府がなすべきなのはそこまでだと考える。すなわち、人々に子どもを持つ自由を保証するところまでが政府のなすべきことであって、子どもを持つかどうかは人々の判断にゆだねるべきである。そしてその結果として出生率が上昇したとすれば、それを前提とした社会システムとし、出生率が変わらず、あるいは低下するのであれば、それでも人々が豊かに暮らせる社会システムとはいかなるものであるのかを考えるべきである。もし、出生率の低下が現在の年金制度や高齢者福祉を困難にするから、あるいは日本経済の持続的拡大を確保する必要があるから、出生率を向上させるべきだというのであれば、「産めよ増やせよ」を推進したかつての軍事政権と変わるところはない。

 出生率と政策との関係は、歴史的経緯もあって、行政が数値目標をあげて推進するのには及び腰だった。しかし、今は数値目標を立てている。そのことが、ここで指摘されているような託児・保育体制の整備や労働環境の改善に対するものであればよいのだけれども、個人やカップルの子どもを持つ自由や権利にまで及んでいくのだとすれば、警戒しなくてはならないだろう。それにしても、長時間労働の改善なども含めて、なかなか変わらない。子どもを産む可能性の高い女性たちのボリュームゾーンも、数年すれば高齢化してしまう。そのことに対する危機感を共有しているのだろうか。

P.251

 いま一つ、日本人はお金のかからない街をつくるべきだろう。日本の街は、時間を過ごすにはお金がかかり過ぎる。例えば西欧諸国では、街の中心にスクウェアがあり、人々はそこで思い思いに時を過ごしている。あるのは木陰とベンチと簡易なカフェだけであり、お金を使わず、人と触れ合い、自分の好きなことができる。日本にも広場はあるが、周りはほとんどすべて商業施設である。そこでは、お金を使わずに時を過ごすことはむずかしい。

 ここの指摘にも非常に共感する。本当に、お金のかかる街は多いが、お金をかけないで時間をすごすことはむずかしい。ここに国連大学ビル前の広場にベンチが置かれたことを書いたが、こういう場所がもっとあればよいと思う。この後も、ここの前を通りがかるときに観察しているが、やはり、どのベンチにも誰かしら座っている。このベンチが置かれるようになってから、ここで夕涼みをしている人が増えたように思う。

 松谷さんの指摘するように、日本人の給与は労働の割に少ないのであるから、お金を使わないですむような街をこそ、志向すべきなのではないだろうか。

 それにしても、人口減少がここまで大きなインパクトをもつことで、私たちの生活もシステムも大幅に変更せざるをえなくさせるとは、衝撃的である。

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その1

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その2

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その3

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その3

 松谷さんの指摘でおもしろいと私が思ったのは、日本にはほとんどの商品について国産品が存在するということ。確かにそうだ。反対に考えれば、諸外国では、外国から輸入して済ます商品がかなりあるということでもある。国産品があることがあたりまえと思って暮らしていることも、それに無自覚だったことも教えてもらった。

 また、研究者が研究する対象領域が広すぎるという指摘も興味深い。

P.112-113

 いま一つは、日本における研究開発分野の広さである。日本は、世界に存在するほとんどすべての商品について国産品が存在する唯一の国であるといってよい。つまり、日本企業の活動はほとんどすべての商品分野に展開されており、米国企業と比べても、その商品分野ははるかに広い。労働力人口は半分以下なのにである。それはつまり、研究者や技術者、研究開発費が広く浅く分散されていることを意味する。人材やコストの密度が生命線といわれる現在の高度化した研究開発の世界で、そこまでリソースを分散させたのでは、世界に通ずるような成果は望めまい。

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その1

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その2

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その4

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その2

 介護・看護労働に従事する人が足りない問題についても、松谷さんは以下のように指摘している。非常に的確だと思う。この分野にマンパワーが足りないから、外国人労働者を受け入れるとは言えない、今の条件では、ということだろう。

P.101

 そもそも日本ほどの人口大国において、マンパワーの不足が指摘されるほど供給が少ないのであれば、その原因は賃金、つまり労働の価値が低過ぎることにあるのではないかと考えるのが、当然の思考順序というものである。加えて介護も医療も公的保険で行われている。となれば、この問題の解決のために第一に分析されるべきは、政府が介入していることによる賃金の硬直性である。マンパワーの賦存状況などの分析はその後でよい。つまり、まずは介護や看護に当たる人々への賃金の適正化を図る。その上で足りないとなれば、その段階で外国人労働者の活用を含めて対応策を議論する、というのが政策のあるべき順序なのではないか。

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その1

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その3

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その4

国際児童文学館。

 大阪府の改革で、また一つ、貴重な施設がなくなるかもしれない。国際児童文学館は、世界的に見ても貴重な資料が所蔵されている。

 職員の方がおっしゃっているように、知名度が低いことが致命的なのだろうか。管理・維持費だけでも確保して、資料が散逸しないようにすることはできないのだろうか。惜しいと思う。

ここ

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『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その1

 先日、著者の松谷明彦氏の人口減に関する将来予測などを聴く機会があり、大変興味深い分析だったので、遅まきながら著書を読んでみることにした。

 日本人の給与は生活給であり、欧米では労働に対する報酬だという指摘は、この分野では常識なのかもしれないが、私にとっては非常に新鮮だった。生活給であるから、特別の利益を出したりしていない社員も正規雇用だということだけで、生活を保障される給与が払われているわけだ。その分、身分によって、たとえば、非正規であれば、それだけで、生活できる単価は支払われない。

 終身雇用・年功賃金制は、日本特有の雇用制度と言われるが、松谷さんは、これを「自分に合わない働き方をしてきた日本人」と表現する。理由は、以下に示されている。

P.15-16

 戦後の日本では自分に合わない働き方をしてきた人が多いのではないか。もし終身雇用・年功賃金制がこれほどまでに広範な雇用制度ではなかったとしたら、卒業後、いくつかの仕事にトライして、自分の望む働き方をみつけるという就業パターンも可能だったろう。そしてそれは、その人に合った働き方に巡り合う可能性を確実に高めたはずである。単にチャンスだけではない。そうした就業パターンであれば、人々はいろいろな仕事を体感することができる。自分の仕事を実際に評価されることで、客観的にみた自身の適性や能力も知ることができる。いわば自分にとっても望ましい働き方とはいかなるものであるのかを自分自身が十分に認識した上で、職業を、職場を選択できるのである。だから戦後の日本経済は、終身雇用・年功賃金制という画一的な雇用制度によって、自分に合わない仕事をしている人をより多く生み出してきたといえるのではないか。

 

 日本では正規雇用の賃金は年功で決まり、それは「生活給」であるため、諸外国での「能力給」「成果給」とは違うのだというのが興味深い。

P.27

 年功賃金とは、実は「生活給」なのである。

 なぜ賃金が年齢とともに上がるのか。それは年齢とともに生活コストが増加するからである。なぜ職階や職種による格差が小さいのか。それはポストや能力が違っても、生活コストにはさほどの差がないからにほかならない。すなわち、労力の提供に対して、その人とその家族の生活を保障する、というのがこの賃金制度の設計理念なのである。したがって、労力をそれが生み出す付加価値で測り、賃金をその対価として位置づける能力給、成果給といった賃金制度とは、およそ次元を異にする。

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その2

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その3

『2020年の日本人』を読んで考えたこと。その4

2008年7月 5日 (土)

今日はワークショップをしてきた。

 昨日よりも、もっと夏だった今日。すごい日差しのなか、結構元気に活動してきた。久々にワークショップをしてきたのだ。

 参加者は少人数だったけれども、なかなかに深いところまで話を進められるメンバーで、私のほうもいろいろ教えられることが多かった。

 参加者の人に「とても勉強になった」とか、「このことに気づけたことが最大の収穫」などと言ってもらえたことは非常に光栄だし嬉しいことだった。

 ついでに、仕事Rにつながる糸口もできたような気がして、有意義な時間だった。

 帰宅後は、くたびれて、夜うたた寝をした。気持ちよく疲れることもできた。

 声をかけてくれた方に感謝。

2008年7月 4日 (金)

今年初の真夏日。

 今日は高気圧に恵まれて、気分のよい日だった。

 お昼頃、筋トレに行って、すごい心拍数になるまで真剣にマシンに取り組む。明日の準備があるので、スターバックスに行ったのだけど、準備でなく別のことをする。3時間もいたので、からだが冷えてしまった。ここのスタバは、土日はともかく平日は結構ゆったりとできるので気に入っている。アメリカでの話では、採算のとれない店舗は閉鎖が決まったとか。日本に波及しないことを祈る。

本当は教えたくないおいしいジャム・マーマレードの話

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 朝食にトーストを食べる習慣のある人であれば、トーストしたパンの上に何を塗ったり盛ったりするかは重要な関心事かと思う。定番が決まっていて、変更する必要や予定のない人には不要な話なのだけど・・・。

 一般には、バター(マーガリン)のような油脂系と、ジャム・マーマレードや蜂蜜・メープルシロップのような甘み系が考えられる。単独の場合もあれば、いくつかを組み合わせることもあるだろう。バター不足の折、余計にバターが食べたくなるもので、私はバターを使うか、それにジャム・マーマレードを加えることが多い。

 ジャムの定番はイチゴなのだろうか?私が最近まではまっていたのは、柑橘系で作るマーマレードであった。それも、非常に種類が多い。たとえば、夏みかんマーマレード、文旦マーマレードなど、マーマレードにもバリエーションが多く、こういった単独材料だけでなく、2種類以上の果物を組み合わせたジャムも秀逸である。

 先日はじめて試してみたのは、パイナップルバニラジャムである。これは、新鮮な味覚であった。どうやってこんな組み合わせを考えたのだろうかと思うが、かなりのおいしさである。

 パイナップルバニラがなくなったので、次は何にしようかとお店を訪ねたところ、梅ジャムが出ていた。季節感と好奇心からこれを試してみることに決定。お店には、ちょうど、作り手の方がいらっしゃったので、「どうしてこんな組み合わせを思いつくのか」について聞いてみることにした。

 特に、パイナップルとバニラについては、私なら思いつきはしないと思うのだ。その方は、「いつもいろいろ考えていて、それで試してみる。そうすると、いくつのも試作品のなかから実際に出してもよいと思うのができるのは、ちょっとだけ。周囲の人は『これもおいしいよ』と言ってくれるものでも、自分が納得しないものは商品にはできない」というようなことをお話くださった。

 なるほど、私たちが商品として食するものの後ろには、いくつもの試作品だけで終わってしまったたくさんの挑戦があるのだ。そういう見えない努力の結晶をいただいているのだと思うと、より一層ありがたい気持ちになる一瓶だった。

 お一人で作られている関係から、工場生産のようにたくさんあるわけでもなんでもなく、お店にはいつも10点ほどあれば多いほうなのだ。そして、あるときは、訪ねて行ったら、「ここにあったのを全部買い占められたところで、今日はもうない」と言われたこともある。ある方が、10点くらいまとめ買いして行かれたようなのだった。だから、本当にたくさんの人には知られたくないのだが、おいしいのは事実なので、もっと広がってくれればいいと一方では思う複雑な心境。

 お店の場所は、青山ブックセンター青山店の近くにある東京ウィメンズプラザ内にあるパッチワークというお店だ。ジャムの作り手は、

プチ果房 ヴァリエ

 年中、そのときに採れる果物をメインにしたジャムやマーマレードを丁寧に作り、提供されている。

2008年7月 3日 (木)

『ダイバーシティ』。その1

 山口一男さんがChabo!に著者として参加なさったと知ったとき、ワークライフバランスの共著を購入しようかと思っていたのだが、その後、次に出される単著からChabo!対応になると知り、おもしろそうな感じなのでそれを購入しようと思っていた。

 2週間ほど前に、予約して、それ以来、どんな内容なのか、楽しみにしながら発売を待っているところ。先ほど、内容情報が更新されていないのか見てみたが(ウェブ書店)、まだあまり情報がないようだ。

 まぁ、あと10日もすれば、現物が届けられるのだろうから、待つことにしようかな。楽しみにしつつ待つという時間は、かなり嬉しい。

ダイバーシティ

牛乳パックを開いてリサイクルBOXに。

 牛乳パックをすすいで乾かした状態で溜めていたのを、開いてまとめてリサイクルBOXに持っていくことにした。数えてみると21枚あった。毎日1本飲んだりはしていないので、2ヶ月分くらいだろうか。

 パックを溜めていた一角が片づいてすっきりした。やはり、片づくと気持ちよい。それが、本当にちょっとしたことでも。

段ボール箱をたたんで捨てる。

 通販のヘビーユーザーにとって、そして、片づけが上手でない人間にとって、段ボール箱が溜まっていくのは頭の痛い問題だ。毎週、資源ごみの回収日が設定されているので、ある程度溜まったらたたんでまとめて出せばよいのだけども、からだの底からわかっているわけではないらしく、なかなか実践できない。もちろん、1箱ずつ出せないし、ある程度まとまった数になるまで待たなくてはならないので、一定期間は置いておかないといけない事情があるのだけども。

 私の居住地域では水曜日が回収日なので、今週は「えいっ」と火曜の夜にまとめて玄関に置いておいた。

 当日の朝になると、いつもよりも出かける準備に時間がかけられなかったために、大慌てで出かけようとして、段ボールを忘れかけたが、出口直前に置いてあったお陰で、出してしまうことができた。

 つぶさない形のまま、積んであると高くなるし、視界も悪くなる。そこの場所が空くと、とてもすっきりした印象になった。そこだけ見ても、気持ちがよい。

 「片づけるとすっきりして気持ちがよい」という実感がもっと自分に定着すれば、いろんな片づけがもっと楽に行えるのではないかと思う。楽に、とは、あくまで心情的なことで、実際にやってみればそんなにむずかしいことではないとわかっているのだけども。

2008年7月 2日 (水)

自分「が」しゃべると発散できる。

 いつもは聞き役に徹していることが多いのだけど、今夜はよくしゃべる相手に負けずにこちらもかなりしゃべってやりました。

 久々に思い出したのだけど、自分がしゃべるとかなり発散できるようだ。

 遠慮せずに何でもしゃべりたいことをしゃべる相手がいるのはありがたいことだ。そのことも久々に思い出した。

 

2008年7月 1日 (火)

筋トレの効果は出ているのか。7月の測定結果から。

 7月の測定の日が来た。あんまり筋肉がついている気配はないが、でも、測定して実際にはどうかを知ることは大切なことだ。

 ということで、今日は測定をしてもらった。結果はほぼ変化はなかったのだが、なぜか、お腹とウエストだけが4センチと結構減っていた。体重がほとんど減っていないにもかかわらず。なんでだろう?特別なこともしていないし、嬉しいとかいうよりは、不思議な気持ちが強い。筋肉は割合が減らずに済んだのでほっとした。

 6月は通えた日数は、6日でちと少なかった。7月はもともとの目標に立ち返って週に2回は通えるように努力したいと思う。

 来月もウエストに変化があれば、今日の結果は何かの間違いではないのだと信じることにしよう。疑い深いけど。

今日はビワを食べました。バナナも。

 こうやってみると、あんまりおいしそうではないのだけど、なかなかジューシーでおいしいビワでした。種が大きいです。ビワも品種改良が進んで、実が大きくなってきている。そのため、果肉の部分が増えているのだけど、できれば、種を小さくして、外皮と種までの間の果肉の厚みを出せるようになれば、すごいヒットしそうな気がする。以前、誰かが、種のないビワが食べたい、と言っていたが、そういうのを発明すると、すごい人気が出るような気がする。

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赤レンガ図書館オープン。

 北区に旧陸軍の倉庫だった建物を利用した図書館がオープンしたという。中からみた感じが素敵だ。愛称は赤レンガ図書館。行ってみたいなぁ。

「生きている図書館」

 朝日新聞628日付国際面「生きている図書館」という記事を読む。こんなことが行われていることを、これまで知らなかった。生きた人間を「本」として、読む人間はその「本」に質問する。そこで対話が生まれて、相互理解が進むのだ。とくに、おもしろかったのは、障害のためにあごの骨が発達しすぎて目が飛び出してしまった顔になった人の、「人が何か違うものをジッと見るのは自然なのね。なのに、勝手に傷ついてきた」という発見だ。自分の側からだけ見ていれば、たしかに、人の顔をじろじろ見られるのは失礼なことだと思う。何か顔についているのかなと思ったりもするのだけれど、他の人とは違う顔との自覚のある人であれば、「笑われているのではないか」とか「馬鹿にされているのではないか」と受け取りがちになっても仕方のないことのようにも思う。しかし、それが、とくに他意のない素朴な疑問から生じる行動なのだと知ることで、見られているほうも救われる気がするのだろうか。社会的な儀礼としては、「儀礼的無関心」を装うことがもとめられることかもしれない。でも、そのことで、無知なまま終わるよりも、顔に変化が現れる病気があると知ることで、知るほうの世界も広がるのだ。

 私たちの社会では、「そっとしておく」「触れないでおく」といったことが思いやりになっている部分は大きいと思う。そのことは、必要なこともあるが、人間には不思議なものや知らないものを知りたいと思ったり、知らないままだと不必要に不安を感じたり怖がったりするものなのだ。だから、素朴に「本当なら失礼だから、聞いてはいけないかもしれない」ようなことを自由に遠慮なく質問する機会が与えられることは重要なことなのかもしれない。

 最近は、なんでも遠慮して表面的な会話に終始するような場面も多いような気がする。でも、人は「こんなこと、言うと引かれるかも」と思うような心の内を聞いてほしいと思っているところもあるのかもしれない。

 と、いろいろなことを考えさせられる記事だった。

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