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2008年9月24日 (水)

フィンランドと『かもめ食堂』誕生の謎。

 ここにも書いたように、『かもめ食堂』は不可思議な映画だ。ストーリーがわからないというよりは、設定がよくわからないというほうが正確なのではないか。最大の謎は、なぜ舞台がフィンランドでなくてはならなかったのか、に尽きると思う。かもめ食堂を切り盛りする女性がなぜフィンランドで日本食のお店を出そうと思ったのかは、最後まで明らかにならない。日本からやってくる二人の女性たちは、一応の理由がある。かもめ食堂を手伝うことになるので、一応は「なぜここで日本食の店をやっているのですか」との疑問は発せられるが、それには「本当の理由」は答えられることなく、その場で思いついたことを言っている。

 「別にフィンランドでなくても、いいのではないか」と思うのは、私だけではないようだ。そこで、監督にインタビューしたものを再度確かめてみた。『シネマ・ジャーナル』(vol.67、2006年春号)によれば、映画の経緯は以下のようなことらしい。

 プロデューサーが「フィンランドで三人の女性が食堂を開く話」という企画を立ち上げ、キャスティングも最初に決まっていて、群ようこさんに原作の執筆をお願いしました。

前半(ここ

後半(ここ

 だから、「フィンランドである必要がわからない」のは当たり前だ。たぶん、日本にあまりなじみがなくてよく知らない国(でも、北方の)なら、たとえば、アイルランドとかアイスランドとかでもよかったのかもしれない。

 『フィンランド 豊かさのメソッド』の著者によれば、フィンランド語は英語ともドイツ語とも違う語族であり、外国人には習得がむずかしいのに加え、高校を卒業したフィンランド人は英語を普通に話すため、フィンランドに暮らす外国人も大学に留学していても英語でなんとかなるといった条件も加わり、外国人でフィンランド語を話せる人は極めて少ないということだ。そこからして、かもめ食堂のオーナー女性がフィンランド語を話しているのもより一層不可解である。

かもめ食堂 (幻冬舎文庫 む 2-12)

 原作(『かもめ食堂』、群ようこ著)を読めばわかるかもしれないと思ったが、今日寄った書店には見当たりませんでしたし、「制作の経緯」から想像するに原作にも書かれていないのではないかという気がする。

 たしかに現実的に「資金はどうしたんだろう?」「言葉はなぜしゃべられるようになったんだろう?」などと考えると疑問は尽きないが、そこら辺は適当に想像すればよいのかもしれない。

 養護施設で育ち日本の大学を卒業後、ふらっと立ち寄ったフィンランドに魅せられてそのまま数年住みついていたところ、遠い親戚に金持ちがいること、その人が莫大な遺産を残して亡くなってしまったため、遺産を受け取るように弁護士から連絡が来る。日本にいる理由があまりなかったこともあり、遺産で店でも開いてみようと思った。遺産はあちこちに分けSRIもしているため、その市場調査のためにもフィンランドに住みついたほうがよいと考えた。かもめ食堂は資産を安全に隠すためと税金対策のために、どんなに人が来なくてもすぐにやめるわけにはいかない。店での利益が出なくても、キャッシュフローで余裕で暮らせるようにはなっている。

 ということにしました。これは、私の設定。

 この映画を観て高い評価をしているのは女性に多いような印象がある。彼女らも設定上の疑問はもつのかもしれないが、たぶん、小林聡美さん演じる女性の凛としたたたずまいや、店に誰も来なくても淡々としている様子などに、憧れを感じるのではないかと思う。あんまり日々にいいことがなくても、きちんと丁寧な生活をしている感じが今の時代に受けのよい部分なのではないかと。

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コメント

えふさん
  「かもめ食堂」についての更なる記事には同感です。「あんまり日々にいいことがなくても、きちんと丁寧な生活をしている感じが今の時代に受けのよい部分なのではないかと」という解釈には感心しました。ヨガ(でしたっけ?)をしたり、主人公の自律的生活は感じました。主人公は文化環境的にも孤独なはずなのに、孤独を感じさせないのも、若さなのだと想像しました(あるいはフィクションのせいかも)。文化的異国での孤独は歳とともに増すと思うからです。
  でも、僕も米国住まいですが、フィンランドであれ米国であれ他国では日本とは違うに日常があり、違った時間が流れていると感じるのですが、そこはこの映画である程度形は表現されていても。その意味をもっと鋭く描いて欲しかったとも思います。やはり、そこは物足りないかな。


えふさん
  追伸です。貴女の「設定」は笑えます。食堂に客が来なくても生活苦感が全く無く、「きちんと丁寧に」生活できるのは、確かに只者ではありません。これからも時々笑える想像を披露してください。

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 「時間の流れの違い」を表現するには、どういうところが足りなかったのでしょうか。私は映像表現のことはよくわからないのですが、もう少し、フィンランドの風景や人々の様子を遠景として、ところどころ観られたら印象が変わったのかなと思いました。

 ヘルシンキは港町のようで、港でもたいまさこさん演じる女性が「空路で失くした荷物」の問い合わせを何度かしている様子が出てきますが、あれも、海に向かって撮るだけでなく、逆から街を写したところが私は観たかったです。
 また、片桐はいりさん演じる女性と出会う図書館の場面でも、他のフィンランド人の様子や図書館の中の様子なども知りたかった気がします。

 とはいえ、そうすると、撮りたかった主題から離れてしまうのかもしれないのですが。

 「設定」についても、コメントありがとうございます。喜んでいただけてよかったです。

 実はもっと長いものなのですが、昨日の記事にとっては中心的なことではなかったので、「おにぎりの店にした理由」や「儲からない店を経営するセンスを持ちながら、キャッシュフローを生み出せる秘密」、「からだを鍛える理由」「孤独に強くなった境遇」などについては、割愛しました。

 せっかくですから、お薦めにしたがって、昨日書かなかった点についても、別に書いておきます。

えふさん
  「時間の流れ」ですが、映像では確かに難しいでしょう。僕の意味したことは映画が主人公と他の二人の日本人女性だけでなく、フィンランド人の暮らしの描写に入って欲しかったと言う意味です。多分フィンランドでは心の上でも、実際の生活でも、日本よりゆとりを持って生活時間が流れています。それが映画を見るものにもう少し伝えられなかったかと
言う意味でした。

山口一男さん、お返事ありがとうございます。

 「時間の流れ」の意味するところ、了解しました。たしかに、フィンランド人の生活の様子がほとんど出てこないですね。そういう描写は、私も見てみたいです。

 主人公が孤独に見えないことについては、私は逆に以下のように受け止めていました。つまり、孤独には2種類あり、物理的に一人でいるときに感じるものと、周囲に人はいるのに感じるものです。主人公は若いうちに、後者の孤独を感じて生きてきたために、前者の状況ではあまり孤独と感じなくて済むのではないか、と。(養護施設のすべてがそうだとは言いませんが、「設定」をそのようにしたのも、孤独に強くならざるをえなかった境遇を想像したためです)。

 文化的背景が異なるために理解しにくいのはあたりまえと思いやすいのに対し、同国人の中にいるのに理解できない感じがあるほうが、私は孤独感が強いのではないかと思ったりします。

 年齢を重ねると孤独感が増すということに関しては、もう少し年数がたたないとわからないかもしれません。

 子どもには子どもの孤独がある、という気はするのですが、孤独の比較はむずかしいです。

えふさん
   相変わらず深いですね。そうです、孤独には少なくとも2種類があります。『ダイバーシティ』の「ミナ」の話がそうですが、彼女は一人でいることが孤独なのではなく、他人にとって自分が意味のある存在に見えないのが孤独なのでした(一寸乱暴にまとめていますが)。
   外国にいるときの孤独が重くないのは文化的障壁で他人にとって自分が見えなくても、それは自分のせいではなく、異なる文化を持つ自分を理解できない相手のせいでもあると思えるからです。それに対し、文化的に同質な人間の中での孤独は、相手の理解力の無さのせいにできない分、重くなると思います。


山口一男さん、コメントありがとうございます。

 ミナの孤独に関しておっしゃりたかったこと、よくわかります。『ダイバーシティ』を読んだとき、強い印象を受けたところの一つがその部分(強い孤独感)でしたので。

 親は子どもが生きてそこにいるだけで、それでよいと思っているようにも思うのですが、それが親にも子にも明確にわかるのはその「何も起こらない幸せ」を全部あるいは部分的に失ったときだったりします。何か大きな取り返しのつかないものと引き換えにしか、そういうことを自覚できないのであれば、そんなことはわからないほうが幸せなのではないか、という気もします、逆説的ですが。本筋をずれました。


 人と理解しあえないときに感じる孤独にも、理解の欠如感の程度(大⇔小)とその責任帰属(主に相手⇔主に自分)の2軸に分け4象限にすることができるのでしょうか。「わかってもらえ(て)ない」ことの理由を全部自分に求めるのは、極めてきつい経験ですね。

 さらに、同質文化だと思っている人間に対しては、理解に対する期待水準も高めてしまっているような気もします。その場合、無理解の判明により、「落胆(絶望)の絶対値」が大きくなるため、より一層の落ち込みを経験するのかもしれません。

えふさん
  逆説のこと、その通りだと思います。健康もそうですが、失って始めてわかる日常的であることの幸せと言うのはもちろんあります。えふさんは、そういうことがお分かりになる人なのですね。こういうことは分かること自体が痛みなのですが、でも、昨日は「人の親切が集中した日」とのことで良かったですね。そういう日があるのは嬉しいことです。、
  一方鬱の人は現在の日常自体が続くことが苦痛と感じています。それも不幸せなのですが、何かを失って始めて分かる不幸せとは違いますね。幸福・不幸の感じ方も一様ではないようです。
  同質文化の人には期待水準が高いから、落胆も大きいというのは、その通りです。友人間でも、夫婦間でも、親子間でもそれは当てはまります。かといって、お互いに期待を全くしない人間関係には絆も生まれません。
  人間はつくづく難しい生き物だと改めて思います。

    

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