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2008年10月10日 (金)

『世界人口白書 2008年版』が発表された、はずなのですが。

 10月9日グリニッジ標準時正午(日本時間21時)に、世界同時に発表すると聞いていたのですが、昨夜の日本でのテレビニュースやネットニュースでは全く報道されていなかったように思います。

 国連人口基金(UNFPA)が毎年テーマを決めて発表する『世界人口白書 2008年版』のことです。今年のテーマは、「文化・ジェンダー・人権」だということは、6月20日に国連ライブラリの講座(ここ)に行ったときに教えてもらいました。

 UNFPAのサイト(ここ)(ここ)に行っても見当たらないような気がしますが。

 その代わりというか、2月6日がFGMに関する国際デーになっていることは初めて知りました。

2008年女性性器切除(FGM/FGC)に反対する国際デーを迎えて(2008年 2月 6日)

 FGMのMがmutilationを意味するのに対し、FGCのCはcuttingを意味します。2つは両方とも切除という意味をもつものの、英語の語感ではmutilationのほうがずっとひどい感じなのでしょうか、「FGMと言うのは、現地の女性に失礼だ」とかいう意見をもつ人が、FGCと言い換えようと言っているようです。

 第6回総会で特に論議されたのは言葉をめぐる問題であった。これまでFemale Genital Mutilation(FGM)という言葉が表象する意味を弱め、次のようなものに置き換えようとする動きが続いてきた:Female Circumcision(女子割礼)、Female Genital Alteration(女性性器変質)、Female Genital Excision(女性性器削除)、Female Genital Surgery(女性性器手術)、そして最近になってからはFemale Genital Cutting(FGC;女性性器の切り込み、カット)。「FGM廃絶を支援する女たちの会」サイトより(ここ

 ある現象をどういう名前で呼ぶかは、多分に政治的な要素を含みますが、FGCと呼び変えようという提案には、非常に強い批判があります。FGMは当事者女性たちがこのように呼ぼうと決定したものであって、失礼な名称ではない。FGCは、その苛酷さを軽減するものである、と。

   名称をめぐる政治は、他の問題においても広く見られることだと思います。

【追記 2008.11.11】

 国連に確認したところ、予定が変更になり、11月12日グリニッジ標準時正午(日本時間12日21時)に世界同時発表になったということでした。

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コメント

えふさん
  言葉の選択の問題には、政治の問題だけで無く、心理文化の問題が関係しているようの思います。僕もFGMが事実をより正確に伝える名称で、例えば「女子割礼」と言う表現はユダヤ教徒の男子の割礼と質的に類似するものと言う、完全に誤った印象を与えるので問題だと思います。でも、言葉にこだわりすぎることには疑問もあります。
  文化心理の問題といったのは、西洋には物に名前を正確に与えないと本質を捉えることができないという意識が、キリスト教の影響もあって一種の「強迫観念」にもなっている思えるからです。悪魔に自分の「本当の名前」を知られると悪魔に魂を取られるとか、悪魔の本当の名前を口に出すと悪魔に自分の存在を知られる、とかの意識が典型です。ハリー・ポッターで登場人物がヴォルデモートと口に出すことを恐れ「例のあの人」といったりするのは、そういう文化の反映で、日本人には奇異に思えると思います。怪しい他人には自分の正しいフルネームは教えたくないとか、誤った名前を物に与えると、それを得る(その本質をつかむ)ことができないという考えも出てきます。だから名前にこだわり、不適切と思える呼称には強く反発します。
  一方わが国では、西洋に比べ発言の「当事者性」の欠如への反応が大きいように思います。このことには戦後の左翼や右翼の意識あり方にも関係していると思います。「敗戦」を「終戦」と呼ぶことへの反発、「東大闘争」と言う言葉に親しんだものが「東大紛争」と当時の東大関係者が言うことへの反発、勝間・西原対談にでてくる夫が家事を「手伝おうか」というときの妻の反発、福田前首相の発言が国民のことを「他人事のように言う」との反発など広い例があります。これも理屈以上に感情的反発が先に来る点で心理文化だといえると思います。
   私は言葉や表現は大切だと思う一方で、そこに感情的にこだわることは、事実認識を共有しあって建設的に物事を考えようということへの障害になるのでかえって問題だと思っていま。FGMの例で言えば、言葉はFGMであれFGCであれ多くの人が言葉に意味する内容と事実をより正確に知ることが大切なのだと思います。

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 西洋というか主に英米なのですが、ファーストネームではなく、それに対応している愛称を呼ぶような習慣も、正しい名前を呼ばないようにするための感覚と共通するものがあるのでしょうか。三大一神教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)でも、「神」の名をみだりに唱えることへの戒めがあったように思うのですが、恐れ多いというよりは不吉であるとの感覚が強いのでしょうか。以前から、このあたりのことは不思議に思っているところでした。

 名前を一部分奪われてしまい、それを取り戻すことも目的の一部だった、少女の成長冒険物語である『千と千尋の神隠し』でも、名前を盗まれていました。宮崎駿監督のアニメですが、これは日本映画とはいえ、そういう点で必ずしも日本の伝統的な感覚を踏襲しているわけではないかもしれませんが。

 日本では「当事者性」の欠如への反発があるとのとらえ方、なるほどと思ういっぽう、疑問もあります。これは、私の感覚では、事実を適切に捉えていない呼称である、との文脈で異議申し立てが行われているように思えるところもあるからです。その中に、当事者性の欠如もあるので、くくり方の差異かもしれません。

 言葉にこだわりすぎることで、本質を見失うことはあると思います。思い浮かぶのは、歴史上使用されてきた言葉であるのに、現在では差別語と見なされ使用されていないために、歴史上の文脈でもその言葉を使わないように自粛する例などがそうです。具体的には、郷土史研究などの成果物を作成する際に、同和問題の文脈における、過去の職業名や地名などを表記しないように配慮するような行為のことですが。

 どういう言い方が適切かについては、文脈によってその適切さが変化するようにも思います。子どもに対する性的虐待死の事件報道で、「いたずら」とするのは、あまりに現実の重大性を減ずる行為のように思います。これは、性犯罪一般でも言えるように思います。

 用語の使用に厳密な人たちというのは、私の想像では、「事実認識を共有しあって建設的に物事を考えよう」とするためには、呼称自体をどうするかが重要な問題として含まれており、事実を正確に知るにはその名称こそが大切だと捉えているのではないかと思います。中には、強迫的な人もおられるかもしれませんけども。

 一般には、いわゆる「言葉狩り」のようなことはしないほうがよいと思っていますし、同時に、言葉や表現も大切にしたいと思っているのですが。結局、おっしゃることと似たようなことをぐるぐると書いてしまったような気もしますが。

えふさん
  丁寧な返答をありがとう。最初の質問ですが、「愛称」がポピュラー化する理由はいくつかあって、同じ名前を持つ人が多いので(例えばエリザベス)、愛称でいくつかに分ける(リサ、リズ、エリザ、エリッサ、イライザ、ベス、ベティ、ベッツィ)というのがあります。ただ名前と苗字を同時に呼ぶ、フル・ネームで呼ぶ、のは特別で、西洋文化ではそれこそみだりにするべきことではなく、何か重要なことを伝えるという意味があります。
 用語に厳密であることは 「事実認識を共有しあって建設的に物事を考えようとするためには、呼称自体をどうするかが重要な問題として含まれており、事実を正確に知るにはその名称こそが大切だと捉えているのではないかと思います」はその通りだと思います。共有は確かに大切なのですが、事実の解釈には経験・知識や感性・文化の違いにより、主観がはいることは避けられないので、「共有」というのは少しゆるくて個人性を認めたほうが開放的ではないかと感じます。科学は用語を厳密に共有しなければなりませんが、社会認識はダイバーシティと共存の必要があるのです。もちろん、前に議論した、相対化してはならない領域(人権問題など)はありますが。抽象的ですみません。

 

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 英米での愛称問題、ご説明ありがとうございます。エリザベスにも、こんなにいろいろとあるとは知りませんでした(3つくらいは知っていましたが)。フルネームで呼ぶのは、ドラマなどで観た限りでは、プロポーズのときや、子どもに対して親や教員が厳格な態度で普段よりもあらたまって厳しく叱る場面に出てくるようなイメージを持っています。

 用語については、いくつかの場面で厳密さに程度差があるのはおっしゃるとおりかと思います。日常レベルではあまりリジッドな使用をもとめてしまうと、窮屈で閉鎖的になってしまうと思います。

 ある程度の範囲で緩やかさを認めるとともに、相手の使っている意味や文脈をより適切に解釈・理解できるような時間的・精神的に余裕のある人間関係が前提となるような気もしますが。あるいは、比較的持続的で理解し合っているような関係でしょうか。サステイナビリティは、どういうことにも重要な気がしてきました。

 おっしゃっていることを理解できているか、わかりませんが。

えふさん
   えふさんの解釈のとおりです。サウテイナビリティは勝間さんも好きな言葉ですが(あと彼女の好きな言葉はセレンディピティですが、これはいかにも彼女らしい)、積極的・行動的な彼女にはサステナビリティはちょっと意外な地味な言葉のようですが、人間関係には確かにとても重要で、勝間さん自身気遣いの行き届いた方です。
  前のコメントで『千と千尋』で千尋が名前を失って、湯婆婆に「千」と名づけられるという話にえふさんは言及しましたが、あのプロットは確かに西洋的です。宮崎駿のこのアニメは「もののけ姫」もそうですが、日本民話的素材と西洋的な普遍的ヒューマニズムをうまく結び付けています(ただし「ナウシカ」の人間と昆虫との交流は、日本人のように昆虫に親しむことの少ない欧米では違和感があったようです)が、その点は侍物語に普遍的テーマを盛り込んだ黒澤明映画と似ています。でも「名前を失う」などそれ以上に西洋的発想の影響を受けているのですね。でもラピュタの空賊なんてピーターパンの海賊よりはるかに独創的で素敵です。そういえば勝間さんはピーターパンのウェンディーを「インディー」と対比させましたね、言葉の語呂合わせですがあれは面白かった。今日は「四方山話」になりました。
   子供の貧困の本、頑張ってください!

   

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 勝間さんとサステイナビリティは、私のなかでは自然なつながりになっています。勉強、努力、行動をし続けられている勝間さんの(私にとっての)イメージにぴったりなので。勝間さんのような方がおっしゃるセレンティビティには説得力があります。

 『千と千尋ー』のことは、やはり、西洋にかなり影響を受けた設定なのですね。宮崎アニメが欧米でも受け入れられるのは、ご指摘のように、洋の東西にかかわらない普遍性を備えているからなのでしょう。

 ラピュタの空賊の件、たしかに卓越したアイデアですね。あんなすぐにも落ちそうな乗り物で「仕事」をしようとすることに、私は感心していたのですが。ラピュタの最後で、城が天空高く上昇し続けるのですが、あれがどうなったのか、それも気になります。空飛ぶ城のアイデアは、原案があるようですが。

 西洋人と虫の関係は、あまり考えたことがありませんでした。昆虫記を書いたファーブルはフランス人ですが、あれは虫に親しんでいたというよりは、生物学者として研究対象としていただけなのでしょうか。
 夏休みは虫を採ったり、虫のほうから飛んできたり、捕まえて飼ったりすることは、子どもにとって比較的一般的な経験なのかと思っていました。あ、日本でも普通の女の子は虫を見たらキャーと言わなければならなかったのかもしれませんが(笑)。

えふさん
  そうです。麦畑も、Chabo!も勝間さんはサステナビリティを考えて行動されていると思います。僕にはサステナビリティという英語の語感の中に一種の守りの姿勢を感じるので(崩壊しなればよいというような)、そこが勝間さんのイメージとはやや違うと感じたという感覚的なものです。
   空賊について「あんなすぐにも落ちそうな乗り物で『仕事』をしようとすることに、私は感心していたのですがーー」。これえふさん特有のユーモアですね。何度かこういう感じの表現を読んでいますが、とても良いです。えふさんの「感心した」という表現には時折「おかしい(変だということではなく笑ってしまうと意味での)」とか「あきれた」ということを意味していると思います。そこを「感心する」と表現するのが個性的です。FGMとか重い話題の対話をしたあと、こういう文章に出会うと救いになります。おもわず顔がほころんでしまいますからね。
   ファーブルは虫好きだと思いますよ。でも、平均的アメリカ人は虫には関心がありません。それから、フランス人はアメリカ人と全然違いますね。フランス人のことは少数の個人を別にすれば文学・映画でしかしらないのですが。『紅の豚』はフランスで好まれたようですね。僕は作家ではアルベール・カミユがまあ好きです。今回も雑談ですみません。


山口一男さん、コメントありがとうございます。

 サステイナビリティに、守りの姿勢というような意味合いが含まれるとは知りませんでした。なるほど、です。

 表現が個性的ですか(笑)。ありがとうございます。本体がちょっと(かなり)不思議な感じですので、いろいろがさまざまに個性的になってしまっているのかもしれません。この文章も、やや意味不明ですが。

 「平均的アメリカ人は虫には関心がない」ということに衝撃を受けています。虫取り網や虫かごはアメリカには売っていないのでしょうか。アメリカの子どもは外ではどういうことで遊んでいるのでしょうか。興味の持てそうな虫がアメリカにはいないのでしょうか。コメにやってくるコクゾウムシなどはゾウみたいな鼻(?)で非常に興味深い虫ですが、アメリカではあまりコメを保存したりしていないので、こういう虫には出会わないかもしれませんね。
 もっとも、現在の日本の子どももどのくらい虫に親しんでいるかについては以前とは様相が変わっているかもしれませんが。デパートでカブトムシを買ってきて飼うとかはあるかもしれませんが、網は不要かもしれません。

 フランス人とアメリカ人は大きく違うのでしょうね。『紅の豚』がフランスで好まれたとは知りませんでした。フランスでは日本のアニメ・マンガが好まれており、アニメやマンガのキャラになりきる服装の人(コスプレイヤー)が集団的に観察されると聞いたことがありますが。
 タタミゼ(日本贔屓)という言葉ができたとか、日本愛好家のフランス人が多いとか、フランス人男性は日本人女性が好きでこの組み合わせのカップルが多くなってきたとか、『日仏カップル事情 日本女性はなぜモテる?』に書いてありましたが、おもしろい現象です。フランス人、謎ですねぇ。

 このブログは、そんなにrigidな目的などありませんので、気楽にしていただければと思います。

えふさん
  ありがとう。ではお言葉に甘えて今日は気軽に書きます。えふさんとの対談です。

山口――えふさん、『ダイバーシティ』を読んでどう思われましたか?
えふ――とても感心しました。
山口――どういうところにですか?
えふ――ミナの物語の登場人物のキャラにです。
山口――というと、例えばピーディーとロゴスの場合は?
えふ――お互いに相手に負けまいと3日も飲まず食わずで、がんばったというのには感心ました。でもそのがまん強さを何か別のことに使ったほうがよいのではないかということが気になります。
山口――それは同感ですね。ではキューブ氏の場合は。
えふ――嘘をつきながら真実を語るのは、嘘をつかずに真実を語るよりはるかに難しいと思うのですが、なかなかよく真実を伝えているのには感心しました。
山口――なるほど。そういう見方もできますね。ではカントさんは?
えふ――昔の人なのに、現代人のマートンさんと対話ができるのには感心しました。
山口――なるほど。「カント現代に蘇る」かな。いや、面白いですねえ。ではミナは?
えふ――繊細で傷つきやすい女性らしいのに、最終的には理性が勝っているのには本当に感心しました。
山口――え? でもそれ別におかしいことじゃないですよ。
えふ――わたしは「おかしい」なんていっていません。「感心した」といっているのです。
山口――そうだったかな。おかしいな。ではカズの魔法使いは?
えふ――魔法らしい魔法を全く使わないのに、魔法使いでいられることに感心しました。
山口――これは強烈ですねえ。でもカズが魔法らしい魔法を使ったら、物語が単なる娯楽作品になってしまいますからね。
えふ――娯楽作品では都合が悪いのでしょうか?
山口――もしかしたら実現できるかも知れないただ一つの魔法をダメにしてしまいますからね。
えふ――ただひとつの魔法って?
山口――不死の魔法です。
えふ――不死の魔法?!
山口――えふさんはミナの物語には普遍性があると書いてくださいましたね。そしてミナがわかることで、ダイバーシティの重要さが分るのだとも。
ええ――はい。そう書きました。
山口――えふさんのおっしゃる普遍性を物語がもし得ているなら、私にその自信はないのですが、作者が死に肉体が滅びて土にかえっても、その心の一部は物語りを通じて、多くの人々の心の中に生き続けることができると思うのです。それこそが不死の魔法です。
えふ――そこまで考えて物語をお書きになったのですか。感心しました。
山口――さぞあきれたことでしょうね。
えふ――あきれたなどといっていませんが。
山口――でも、えふさんはあきれるとき感心したとおっしゃるので。
えふ――ユーモアと真面目な話とはきちんと区別しています。
山口――確かにそうですね。いや、ブログのえふさんには感心しています。御「本体」のことは分からないのですが。

ふっふっふっ(笑)。

 この対談、「えふ」が言いそうな感じがよく出ていて感心しました。

 今回の対談、多くの人に読んでもらいたい内容になっています。二人で「対談」しているのだけ(読んで下さっている人も少しずつ増えてはいるのですが)ではもったいないおもしろい内容です。

 山口一男さんも、相当おもしろい方ですよ。御「本体」のことはわからないのですが。

 おもしろい&ちょっと感動&ややロマンな「対談」をありがとうございます。

 ふっふっふっ(笑)。

えふさん
   そうですね。「公人」としての本名を明かして書いていても、匿名ブロガーであっても、表現された自己と「本体」とは違うかも知れません。「本体」という言葉が面白かったので、つい「御本体」と軽口をたたいてしまいましたが、失礼をお許しください。
  考えてみると人は社会的には「本体」はどうでも良くて、外に向けて表現された自己がそれなりに誠実であれば良いのだと思えます。えふさんは匿名であってもとても誠実に記事を書き、コメントにも対応してくださっていると感じます。
  「対談」ですが、えふさんの言いそうな感じがでていると評価していただいて嬉しいです。えふさんの記事の特に素敵(と僕が思う)ところは、「とぼけた表現」で本質にせまるときで、その感じをえふさんの「感心したこと」に出せたらと思って書いてみました。     

山口一男さん、

 いえいえ、「本体」は私が使った言葉ですから。失礼は私のほうかも。シカゴ大学がうちの近くにあれば「本体」を見せに伺うのですが、実際にはやや遠距離ですので、ご想像におまかせで(笑)。

 「とぼけた表現」で本質にせまるところを気に入っていただいているとは!通ですね!

 こんなにキャラが把握されていると、『ダイバーシティ2』に変キャラとしてエキストラ出演(3行くらい)を夢見てしまいそうです(笑)。キャラの口癖は「感心しました」と「このことは何か別のことに使ったほうがよいのではないかと…」ですかね。それじゃ、3行ではおさまりませんが。

えふさん
  僕も頻繁に東京に行くので、「本体」を見せに訪問していただいて対話できるのも嬉しいですが、ウェブ対話は結構充実しているし、公共性もあってかえってよいかもしれません。
  『ダイバーシティ2』ですか。いずれ何か一般向きの本をまた書きたいのですが、それもありかも知れませんね。「とぼけた」云々ですが、もちろんえふさん正攻法の記事も情報も論理も共にしっかりしていて読みごたえがあります。でも、知的個性というのは別のところに出ていて、そこから人間性にふくらみがでます。正義・正論というのはインパーソナルなものですから。「かもめ」の議論なんかが楽しかったです。

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 「正義・正論はインパーソナルなもの」に、納得です。ここには公開していませんが、私が書くおもしろみのない文章のおもしろみのなさの理由を考えていたのですが、「そうだったのか」と思いました。

 「知的個性」って興味深い表現です。

 「かもめ」の議論ですか。それは嬉しいですね。また、そういう素材があるといいのですけども。

えふさん
  感性の個性は人による感じからが違うことは良く知られているけれど、知的個性という言葉は日本で使われないようですね。でも『ライオンとねずみ』で僕が個々の学生たちに代弁させたのは異なる知的個性なのです。アメリカで日々学生と接しそれを感じていますから。「ダイバーシティ」の重要性の認識もそこにひとつの大きなポイントがあります。
  えふさんが日本からの留学生だったら、日本人を「ジロー」よりもっと個性的に描けたのにと思います。他の学生たちの発言や現代版寓話に独特の「感心」を示したりして。

山口一男さん、

 そうですねぇ、日本で個性と言えば、感性について言っている場合がほとんどかと思います。
 知的個性は、異なる領域の知識を持っているというだけでなく、観点や視点の違いというような意味合いも含むのでしょうか。

 『ライオンと鼠』では、登場人物はキャラがはっきりと違いますけども、それは所属する学科や人種的なバックグラウンドの影響を受けているために、発言の違いが明確になりやすいこととも関係あるでしょうか。

 日本でも人種の多様性はさほどないとしても、考え方の違いなどは学生間であるのではないかと思います。ただ、たぶん、人と違うことを明確にしてまで発言しようとする人があまり多くなく、また、討論の場で活発な意見交換になりにくいような傾向がある気はします。
 互いの違いをくっきりと浮かび上がらせることから得られる豊さよりは、違いを明らかにしないで同調することで得られる仲間意識の方が選好されるのかもしれません。いや、そもそも前者の豊かさを経験することがあまりないために、そういうものの存在を感覚することができにくくなっていると言うべきかもしれません。

 いわゆる「空気が読めない」云々は、大人社会を映し出しているように、私には思えることです。

 「えふ」が『ライオンと鼠』に登場していたら、というのは大変光栄な想定です。「ジロー」はまだ他の学生ほど英語を自由にしゃべることができないことが理由なのでしょうが、この中では一番口数も少ないし、どういう人なのかがあまりよくわからないような気がします。それが日本人的と言えばそうかもしれませんが。
 「えふ」が日本人留学生で自由に英語がしゃべれる設定だったとすると、変キャラとしては機能するかもしれないですが、日本人としてのリアリティを感じられるキャラになるかどうかについては、多少不安な気がしますが。「えふ」はいくらかは日本的な感じがしますでしょうか。「こんな日本人いないよ~」とか言われてしまうと「えふ」が現実だとしても、現実感がないのでは仕方ないような気もしますし。そんなに真剣に心配しなくてもいいかもしれませんが(笑)。

えふさん
   知的個性とといとき「知」には「考え」というよりcognition(認知)のありかたを意味しています。えふさんの言う「観点・視点」というか、目に付けどころももちろん含まれますが、それより広いものです。たとえばえふさんはよく「気になる」という表現を使いますし、何がどう気になるか、自分ならどうするかなどを、を具体的に書きます。それは知的個性を示すにはとても良い方法です。人により何が気になるか、またどう気になるか、まして自分ならどうするか、はかなり違うからです。一方cogntionと対比されるaffectionの方は、物事にどういう感情を抱くかで、これは感性の問題です。
   例えばえふさんはピカソの絵に付いて気になるところをいろいろ書いてています。題のつけ方がおざなりで粗雑だとか(本当にそうですね!)、どこが牧神だか分からないとか(多分あれは「笛」が牧神の笛で、半裸の男がその笛を吹くことで牧神にみえると言いたいのでしょうか、みえないけど)、「アクロバット」は「こんな生活もう無理」と題したほうが良い(優れた想像力です)とか。僕の見方ではこれらはすべてcognitionのありかたで知的個性です。つまり「モノ」から何を認知するかの独自性だからです。
   「えふさん」が日本的かどうかは、日本人の文化や感じ方を理解できることとと大ききかかわるとすれば、えふさんは、個性的だけれど、紛れも無い日本人と言うことだと思います。確かに「ジロー」はあえてやや無個性にしました。最後のダイバーシティの強調でも、一人だけ個性を指摘されていません。それが、残念なことに、未だ日本人の典型的イメージなのです。組織人間は余計そうなので、日本人男性は女性より無個性的だと日本を知るアメリカ人は感じています。

山口一男さん、ご丁寧にありがとうございます。

 知的個性の話、大変興味深いです。認知の様式のことなのですね。「何が」「どう」気になり、自分なら「どうする」かの3セットは、おっしゃるように、私はたいてい自然に発言したり表現したりしているような気がします。が、周囲の人は、必ずしもそのようにはしていません。単に、「気になる」と言ったりはしますが、そのひとつひとつに理由をつけたり説明したりしていないような気もします。これまであまり気が付きませんでしたが、そこが、私がちょっと(かなり)人と違うところなのかもしれません。いちいち説明しているところと、その内容の2つの意味において。

 これまでも、こんな調子でいろいろ気になることを周囲に表明してきたわけですが、「知的個性」という概念がないためか、「変わってるね」と言われることはよくあっても、感性に対する感想なのかと思っていましたし、多分、言った本人もそのように思っているような気がします。日本では何でも「感性」に入れてしまうのかもしれません。

 よく言われるので「変わっている」らしいことは自覚できていたものの、何がどう変わっているのかについては、きちんと説明してくれる人はなかなかおらず、質問すると気分を害したと受け取られたりもして、長年にわたって気になっていた疑問でしたが、大変明晰に説明していただき、お陰さまで、よくわかりましたし、いろいろ気になる疑問がひとつ解決して大変うれしいです。ありがとうございます。

 ピカソの作品に対するコメントへも言及していただきありがとうございます。「通じるかな?」と思ったのですが、わかっていただける方もいるらしいことがわかって、よかったです(笑)。

 「日本人的」の定義によりますが、理解を決め手にするならば、おっしゃるとおりですね。共感をベースにされると、わからないことが多いです。

 では、堂々と日本人留学生という設定で、どこかに地味目に登場する日を期待しつつ?いや、それよりも、「本体」がゼミにお邪魔したいですねぇ、シカゴ大学がうちの近所にあれば、ですけど(笑)。

えふさん
  今回のコメントは少しは役立ったようで幸いです。人は相手によって見えてくる自分というのがあります。何か生活や活動を共有するような深いかかわりの場合には、その相手によって引き出される自分というのもありますが、教育者と学生のような、あるいはメール交信のような、より浅いかかわりの場合、相手の自分への見方で新たに見えてくるものがあるからです。私は研究者でもありますが、教育者でもあるので、えふさんにかかわらず人手の知的個性に関心を持ちます(それがえふさんのように個性的であればなおさらですが)。教育では感性(感受性)を直接育てるのは難しく、認知的な力を増し、またその優れた個性を育てることが大切だと思っています。また感受性の育成もも認知による想像に支えられる部分も大きいので感性は知性と独立ではありません。
   で、えふさんの場合ですが、えふさんは「『何が』『どう』気になり自分なら『どうする』かの3セットは、おっしゃるように、私はたいてい自然に発言したり表現したりしているような気がします。が、周囲の人は、必ずしもそのようにはしていません。単に、『気になる』と言ったりはしますが、そのひとつひとつに理由をつけたり説明したりしていないような気もします。これまであまり気が付きませんでしたが、そこが、私がちょっと(かなり)人と違うところなのかもしれません。いちいち説明しているところと、その内容の2つの意味において。」
   と書いていますが、その3点セットを表現すること自体が個性となるのは、日本特有かもしれません。アメリカの学生は大多数がそれをしているし、そういう自己表現することが大切と思われています。この点ではえふさんはアメリカの基準でぜんぜん「変わって」なんかいません。ですから僕がえふさんの個性と思うのはその内容です。面白いといっては失礼ですが、内容がユニークであるとともにいわれてみると納得のいく、つまり認知の共有が可能なものです。したがって多くは共感もします。表現の仕方にも(「感心した」という言葉をどういうところ使うかの例のように)個性があります。
   知的個性というのは、個人のものでありながら、それが認知の問題であるので、他者と共有できることが多く、それが人々を繋ぎ、理解と信頼に結びつきます。また個性である分、インパーソナルにならず、観念(イデオロギーなど)に支配されることもありません。『ダイバーシティ』も一方で社会的差別をなくし多様な人々に機会を与えたいという「観念」も反映していますが、根本は多様な人々の異なるけれども、ある程度共有できる、知的個性をあわせることで、一人ではできないようなすばらしい創造もできるということを強調しています。まあこれは釈迦に説法ですが。


えふさん
   あんまり「教育者として」とか「演説」したので、茶話1題。僕がピカソの「アクロバット」を見て思いついた題は「内臓がナイゾー、苦しい」でした。外国では通じない題なのが気になります、が。

Organ all gone! Help! 

というのは、どうでしょうか。
乱暴な意訳なうえに、文法無視なのが気になります、が。

 認知の話は、異なる知的個性に触れることで、互いの視野を広げることにもなりますね。「認知は共有できる」はそのとおりですね。
 ここでおっしゃる「観念」は信念体系とも言えるかもしれません。なんらかの価値観に基づき社会改良指向をもつことは必要なことかと思うのですが、その際にも信念の押し付けにならないために、知的個性を発揮して、両者のバランスをとることが重要なのだとわかりました。

 「教育者として」や「研究者として」のさまざまなお話は、私には知的好奇心が大変満足させられる興味深いものです。ご負担にならない程度に、ときどき「演説」は聞きたいですけれど。

えふさん
  Organ all gone! help! は傑作です。「もうひといき賞」かな。今日は仕事の義務で色々難題がありやや気鬱気味だったのですが、笑ったおかげで気持ちが晴れました。優秀賞でないのは英語の感覚ではLとR では、駄洒落になりにくいからなどと、気にするからですが、それでも気分は「最高!」です。実存主義的理由(個人に送られたプレゼントのように感じたせい)ですが。ありがとう。

山口一男さん

 通じただけでなく、笑ってもいただけ、おまけに賞までいただけるとは、私の方こそ「最高!」です(笑)。

 LとRのことはご指摘いただきありがとうございます。たしかにそうでした。迂闊でしたが、もしこれが念頭にあったら、思いつかなかったかもしれないです。したがって、「迂闊の功名」でしょうか。「功名」は大袈裟なので、巧妙、いや、光明かな。

 意図せざる結果として、実存的理由への効果まであったということで、ようございました。

 次回からは、LとRに留意したいと思います。「次回」がいつかはやや不明ですが。

えふさん
  「迂闊の光明」は思白いですね。ノーベル化学賞を受けた田中耕一氏も何か間違った実験をした時に思いもかけない結果が出たことが新たな発見に結びついたとか。セレンディピティというのも、偶然から発見に結びつくような能力ですが、「迂闊の光明」あなどれないですよ。学問でも、「全く違うと思われるものに、形の類似性が見られるとき、それが偶然ではなく、何か知られていないところで深いつながりがあるかもしれないと疑ってみよ」と僕は教えています。まあ、言葉のしゃれのつながりには深い意味はありませんが。
   それにしても、僕が「内臓がナイゾー」という駄洒落は日本語でしか意味をなさないと書いたとき、「普通の人」はただ「そりゃそうだ」と思うだけなのに、「そうかな?」と疑ってかかり、ユニークな答えまで見つけるえふさんの思考は「只者」ではありません。その才能・姿勢、とても価値のあるものです。大事に育ててください。また「上からモノを言って」いるみたいですが、失礼はお許しを。

山口一男さん、ありがとうございます。

 ノーベル賞の田中さんのこと、そうですね。わかりました、「迂闊の光明」にも注意を払って気をつけてみたいと思います。

 「そりゃそうだ」が一般的な反応なのでしょうか。言われてみればそうかもしれません。気が付きませんでしたが。
 お褒めいただき、ありがとうございます。とても嬉しいですね。
 「只者ではない」も、「おぬし、只者ではないな。何者だ?」と怪しまれている感じがして、とてもよいです、気に入りました(笑)。

 この能力(?)はどうすれば育つかわかりませんが、まずは、英語力を増すことでしょうか?もっと、グローバルに通用するようなだじゃれを考え付くために。ぐうの音も出ない英語だじゃれを作る、と目標をもつとボキャブラリーを増やすためのインセンティブになりそうな気がしてきました。方向性として適切かどうか、やや疑問ではありますが。

えふさん
  「この能力」ですが。人に何かが「無理だ」とか「できない」とか言われたり、書かれているときに、「ホントにそうかな?」と疑ってみて、そうでもないよ、こうすればできるよ、という解を得る力のことです。「ぐうの音も出ない英語の駄洒落を作るのは」趣味の領域ですが(『ダイバーシティ』で多用しましたが)、そういう方向ではもちろんありません(笑)。でも英語力をつけるのは、いいかもしれませんね、翻訳を通じただけでは分かりにくいことが、見えてくると思います。

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