『とびこえよ、その囲いを』の実践例として『ダイバーシティ』を読むことは可能か。
ここに書いた記事に対する山口一男さんのコメント(ここ)の対話型授業に関する部分を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、ベル・フックスの書いた『とびこえよ、その囲いよ』のなかに書かれていたことだった。それは、教育学者のパウロ・フレイレ(『被抑圧者の教育学』)を引用し、フックスが理想とする教育方法について述べているくだりである。フックスによるフレイレの教育論の整理では、教育には大きく2つのタイプがあるという。
ひとつは伝達中心の「預金型(銀行型)教育」であり、もうひとつは、被教育者の主体性を重んずる「対話的教育」だ。フックスは従来の教育というものは前者に偏っておりそれは知識の体系が「抑圧者」によって形作られたもののうえに、それを教え込むことでより「被抑圧者」を抑圧する作用をもつものとして批判的に説明している。いっぽう、後者については、そういった教育こそ理想であると主張している。
『とびこえよ-』の翻訳出版記念集会に行ったときに、参加者から出されたある疑問が印象に残っている。それは、以下のようなことだ。
前者は現状批判であるので、どういうことを指しているかはよくわかるのだが、では、あるべき姿として語られる後者は具体的にはどういうものなのだろうか。フックスの主張に共感し、他者(学生)を「抑圧」しない教育を行いたいと考える場合には、どうすればよいのか。
教員も多く集まっておられた(翻訳者の方々も教える立場におられる人たち)その集会で聞いた疑問から、教員自身がそのようなものを経験していない場合に、見たことも聞いたこともない方法を理念のみから導き出すのはかなり困難なことなのではないかと思った。
『ダイバーシティ』の教育劇を読んだときには、他にもいろいろ考えさせられることがあったのだが(ここ)、先述したようなことも考えたことのひとつである。ここまで書いたことと、教育劇が(私のなかで)どのように関係しているのかというと、フックスがフレイレをひいて主張する「抑圧」しない教育法である対話型授業のひとつの具体例として、ヤマグチ教授と学生さんとの授業風景が捉えられるのではないかと思ったのだ。
随分前に書いていたのに、アップするのが遅くなりました。知識の伝達も、それはそれで重要なことだとは思うのですが、対話型教育により得られるものは、また違う水準のことかもしれません。
『ダイバーシティ』に収録されている教育劇の部分は、もともとはREITIで公開されていたもののようでした。一応、ここにもあげておきます。
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えふさん
とても興味ある指摘です。ベル・フックスの本、まだ読んでいませんでした。読んでみます。
投稿: 山口一男 | 2008年10月 6日 (月) 23時21分
えふさん
追加です。本を読んでいないので、分からないのですが、教育者として「知識伝達型」が則抑圧的だとは思いません。教育者が権威主義的な態度で、学生の未熟な質問をバカにするような態度を取ったり、成績だけで人の判断にまで及ぶようであれば、抑圧的になると思いますが。僕の大学院の授業などは専門家を育てるためなので、技術的部分(データ分析方法)など、かなり知識伝達型になります。一方学部のリベラル・アート的教育が重視されるコースでは「対話型」を取り入れています。
基礎知識や技術(数学・理系など)の教育は知識伝達的側面は必要と思います。ただ、教育は生・生徒の思考力、想像力、共感力などを育てることが目的で、知識・技術はその手段に過ぎないということを教育者は忘れるべきでないと思います。教育者は学問・知識の伝達者で無はく、学生・生徒の可能性を導きだす役割の専門職にあるということだと思います。
投稿: 山口一男 | 2008年10月 7日 (火) 02時40分
えふさん
また追加です。『ライオンと鼠』でも議論したことですが、「同じ言葉」と思っていても与えるシグナルの意味が送り手と受け手で違うと、誤解や不信を招くので、教育と言うのはシグナルの持つ意味を一方で共有する作業でもあるし、他方で言葉のもつ意味の違いを想像し、また相手の想像を助ける、コミュニケーション能力を養うことでもあると思います。対話型が有効なのは、そう意味でロジックと感性・文化の齟齬を埋める作業ができるからです。ただ自己主張をする能力だけが高い(アメリカではそういう人も沢山います)人は、本人はそう思わないので困るのですがコミュニケーション能力は実際には高くないと思います。また地位の違いが絡めば、受信能力の低い一方的発信能力は(学生に対する教師とか、職場における上司とか、地位の高い側にあるとき)対話型に見えても抑圧的になると思います。
投稿: 山口一男 | 2008年10月 8日 (水) 03時14分
山口一男さん、コメントありがとうございます。
「知識伝達型」=抑圧的とは私も思っていません。「抑圧的」に2つくらい意味があって、「学生に対する態度」といったことと、「知識そのものに含まれている価値観が、マジョリティ中心に体系づけられている」ことかと思います。
あまりうまい喩えが思い浮かばないのですが、たとえば、「北米の歴史」といった知識には白人がやってきて「開拓」したというような話になっているとします(実際は違っているかもしれませんが)。そうすると、ネイティブの血をひく人から見ると、「開拓」は「迫害」「侵害」の歴史だと感じてしまうのにもかかわらず、「開拓」を正統な歴史として学ばなければならないため、抑圧的に受け止めてしまうことも考えられないでしょうか。
このことは、history=his story⇔her storyで説明されるwomen's studiesにおける異議申し立てにも共通してみられることかと思います。
前者の意味での「抑圧的」とは無縁の授業だとしても、たとえば、歴史上活躍する人物が男性だけでいかにその人が立派だったかという話をいくつも聞いていると、なんとなく、「男性は非常に立派だ」という価値観だけを伝えられているようなことになるようにも思います。
統計に関することで言えば、たとえば、調査票のフェイス・シートに性別の欄があり、そこが「男・女」となっているのが通常かと思うのですが、こうしてしまうことで、いずれにも該当すると思えない人たち(たとえば、性別違和をもつ人など)は、どちらかを無理やり選ぶか、あるいは無回答にしてしまうことが考えられます。そうすると、集計の際には、有効票として数えられず、こういう人たちの実態などは明らかにならないままになるか、男女のいずれかのカテゴリーに取り込まれてしまい、結果として、可視化されることなく、インヴィジブルな存在として取り残されるようなことも考えられるのではないかと思います。
具体的には、たとえば、DVの被害実態を明らかにする調査などでは、回答者の性別だけでなく、相手が「異性」であると前提されて設計されています。そうなると、セクシュアル・マイノリティでもあるだろう被害の実態がマジョリティのほうに集計されてしまうことになるかと思います。
このように、こういう例を想定しているかどうかはわからないのですが、フックスにおける抑圧的の意は、マイノリティの価値観や実態を可視化することをこれまでしてこなかったマジョリティ中心の知識のありようを問題にしているように、私には思えたのですが、解釈違いかもしれません。
そして、上記のあまり上手でない例示に対して、「では、具体的にはどうすればよいのか」との疑問が当然出てくると思うのですが、私には現在のところ、よいアイデアが浮かびません。性別を「男・女・その他」のようにしてもおかしいです。また、技術的なカテゴリー分けの問題とは別に、わかってしまうと不利な扱いを受けかねないセクシュアル・マイノリティの人のセクシュアリティなどを問ってしまう設問というのは、調査倫理的にも問題があるのかもしれません。
以上のようなことをぐるぐると考えていると、最初の記事に書いた、批判の意味はわかるが、具体的にどうすればよいという方法論を提案しているのかよくわからない、という疑問に回帰していきます。
投稿: えふ | 2008年10月 8日 (水) 22時02分
対話型の有効性に関しては、ご指摘のとおりかと思います。以前にも、「学生の質問は、教員を助ける」との趣旨のことをお書きになっていましたが、相手が反応することで、相手の理解の仕方や受け止めの内容が明らかになり、誤解であれば正しい理解を助ける働きかけをしたり、相手の理解の様式や能力に合わせた対応ができるようになるかと思います。これは、授業だけでなく、一般の対話にも共通のことでもありますね。
「自己主張をする能力だけが高い」人のことは、私もそう思います。これは、先日勝間さんも朝日新聞be土曜版の連載でも取り上げておられた「アサーション」でも言われていることです。
アサーション・トレーニングでは、私たちのコミュニケーションを3つあるいは4つに類型化しているのですが、
1.攻撃的な主張(表現)
2.消極的な主張
3.アサーティブな主張
としています。1.はご指摘のアメリカ人のことかと思いますし、2.はむしろ、言いたいことは言わずに飲み込んでしまい「自分が我慢すればいいや」という態度を言います。これら2つはいずれも、相手を尊重しておらず、自分も尊重していない点で、あまり誠実な表現法とは言えず、3.を理論的に学び実践できるようにしようとするのが、トレーニングの趣旨かと思います。
4つに類型化する場合は、1.と2.を、「攻撃的」「受身的」「作為的」の3つに分けます。
どちらの場合も、目指すのはアサーティブな自己表現です。その他の表現法は、「いつもは我慢しているけど、ときどき爆発させてしまう」といったように、「攻撃的」+「消極的」になっていることもあります。
いずれにしても、相手の言うことをよく理解した上で、自分のことも理解してもらうようになるような、心がけだけではなく実際の会話スキルを身につけることも、幸せな人間関係を形成するのにも、社会全体にとっても重要なことかと思いました。(自己疎外から破壊的な行動に出てしまうことは、自己に向けば自殺や自傷行為につながりますし、他者に向けば相手を殺傷するようなことにつながります)
投稿: えふ | 2008年10月 8日 (水) 22時22分
日本の大学でも、対話型(グループディスカッションなども)を取り入れてみたいと考えておられる方々はおられるようなのですが、多少試みてみても、思うようなディスカッションにならないと聞いたりします。
出版記念集会に参加されていた方が、具体的な方法がよくわからない(知りたい)と言われたことは、「抑圧的でない」ことに加え、活性化するディスカッションの方法が知りたいという意味でもあったのではないかと私は思い、参考になる具体例として『ダイバーシティ』の教育劇を思い浮かべたということもありました。
自分でも、あれこれクリアに整理できておらず、いろいろ混乱しているかもしれません。
投稿: えふ | 2008年10月 8日 (水) 22時29分
えふさん
すみません。こちらは短く返信です。教育による抑圧には教育者の権威主義的態度のほかに、知識の内容がマジョリティー中心の価値観の反映があること。おっしゃるとおりです、アメリカにおける
多文化主義(multiculturalism, cultural pluralism)
の運動はまさに後者の問題意識からおこったのでした。でも行きすぎもあって、UCLAで教えていたとき、ヒスパニック(南米系)の大学院生たちが、社会学で統計を必修とするのは白人文化の押し付けだから廃止せよという運動をしました。社会の統計分析をする私などは「白人文化に染まった黄色人種」(バナナ)とみなされたわけです。
科学の問題がかかわるとき、多文化主義で相対化できない事柄があります。規範でも基本的人権にかかわること同じだと思います(相対化してはいけないと思います)。多様性を尊ぶ一方、何を持って私たちは文化を超えた人類の基盤とするか、その合意が重要と思います。
投稿: 山口一男 | 2008年10月 9日 (木) 00時18分