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2008年10月 4日 (土)

ピンクリボンキャンペーンに思うこと。

Tower 

 今月は乳がんの早期発見や予防についての啓発月間とされています。食の欧米化や晩婚化、非婚などの女性のからだを取り巻く状況が大きく変わり、乳がんも増加傾向にあると言われています。

 また、乳がん患者の低年齢化も言われます。小さい子どもの子育て期でもあり、仕事にも忙しい30代40代に罹患していることも多いようですが、ひとの世話や忙しさを理由になかなか検査に行けないで、気になることがあっても伸ばし伸ばしにしている女性も多いのかもしれません。

 予防と早期発見の重要性は疑いの余地があまりないと考えています。女性本人や女性の胸に触る可能性のある人には、乳がんがどのような触感でどの辺りにできるかなどの基礎的な知識も重要でしょう。

 そういう意味では、毎年啓発月間を定めて、さまざまなキャンペーンを行うことも大変意義のあることだと思います。私は日本のあちこちにあるタワーをピンクにライトアップした夜景の写真はとてもきれいだと思います。

 ウェブ上でも、たとえば、Yahoo!などでもトップページにピンクリボンのロゴを表示するなどキャンペーンに協賛されているようです。

 多くの善意で担われているこの活動に水を注す気はないのですが、ちょっと気になることがあります。

 それは、キャンペーンでポスターや標語を募集したりする活動のなかに、乳がんを象徴するものとして、女性の胸の部分を使う傾向があることです。それも、裸だったり強調してそこだけを切り取ったようなやり方で。写真の場合もあれば、イラストなどの場合もあります。

 たしかに、乳がんは乳房にできるものです。ただ、そのことと、啓発のために、乳房をモチーフとして使うということは、必ずしも接続させておかなければならないものではないはずです。

 切除手術をされた乳がん患者さんも見ることになるポスターに、健康で若くて切除されていない胸を強調することは、果たして必要でしょうか。乳がんには罹患していない女性たちに向けても、「モデルになるような美しくて若くて完璧な乳房」を見せることで、自分の胸に関心を持てとのメッセージが、果たして伝わるでしょうか。

 広告などの表現におけるプロフェッショナルの方に対してだから、要求水準の高いことを言いたいと思います。

 乳がんの啓発=胸の写真(イラスト)で人目を惹くという図式は、手法として、あまりに素人的で、あまりに芸がなく、あまりにデリカシーのない行為ではないでしょうか。

 乳がんに対する知識を広め、予防して早期発見・早期治療につなげよう、という善意に支えられたこの活動の理念がすばらしいと思うだけに、そこのところが残念に思えてなりません。

 乳房を強調することなく、それでいて、乳がんキャンペーンの趣旨をきちんと伝えられる、そういう表現は、きっとあると思います。

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コメント

えふさん
   ピンクリボンキャンペーンについては、何故これだけが日本では広まったのかに興味があります。
   アメリカではリボンキャンペーンでは「黄色いリボン」が一番目立ちます(した、今はちょっと下火です)。昔から歌にも歌われたし、日本の山田洋二監督の「幸せの黄色いハンカチ」にも、その変化形が見られますが、戦争に行っている人たちなどが無事に戻ることを願う気持ちを表したのもですが、湾岸戦争、イラク戦争などでは軍隊・軍人支持のキャンペーンにも用いられました。車などにリボンのステッカーを貼るのです。まあ、「国のために命をささげる」のでなく「無事帰還する」ことを強調する点で、戦前の日本とは違いますが。
   でも黄色いリボンはイラク戦争支持の意味合いが強かったので、それに対抗して「イラク戦争反対」に使われたのは白いリボンです。もともと家庭内暴力(DV)反対のキャンペーンに使われたりしたもので、白いリボンには反暴力の意味合いかあります。このリボンも、ステッカーを車に張ります。
   1990年代にAIDS予防(AIDSのアウェアネス)キャンペーンに使われたのが赤いリボンです。安全なセックスとかエイズ予防の社会的意識を高めようとしたキャンペーンですが、HIV陽性者者の連帯や、HIV陽性者への差別反対もの意味していました。
   乳癌予防(乳癌のアウェアネス)のピンクリボンは一番最近だと思います。
   ピンクリボンは、これらのリボンの中で一番社会運動から遠く、その点で一番政治的意味合いのないリボンです。日本でピンクリボンが一番有名になり、ビルのイルミネーションなどにも使われるのは、あそらく日本で市民社会運動的なものは、政治的なものが忌避されることと関係しているように思います。DV反対はあたかもフェミニズムの「専売」、平和や非暴力の訴えは「サヨク」の「専売」のように思われていろので、白いリボンは普及しません。エイズも未だ遠いことのように思われているのかもしれません。世界では大変なことなのですが。
  こんな事実からも、アメリカに比べ日本では日常の暮らしを良くすることには関心があるけれど、社会を変えようという運動は広がりにくいことが見てとれそうな気がします。まあ、僕の主たる関心事であるWLBの達成できる社会の実現は、日常の問題でもあり、社会を変えることでもあるので、やや手ごたえは違いますが。
   

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 リボン運動に関しては、他の色のものにも関心をもっているのですが、現在日本ではおそらく黄色はないのではないかと思います。
 10年以上前ですが、『幸せの黄色いハンカチ』は観ています。詳細は忘れたのですが、「なぜ黄色なのか」についての疑問が、おかげさまで解けました。

 私の感触では、現在日本にあるリボン運動は、
1.ブルーリボン→拉致家族を帰せ
2.ピンクリボン
3.レッドリボン
の順に浸透しているように思います。1.のほうを2.よりも浸透度が高いと判断する理由は、行政が作ったポスターが年中貼ってあることと(季節ものではない)、国会議員はじめ都道府県レベルの議員も公の場に出るときにスーツの胸にブルーリボンをかたどったピンバッジをつけているのを、報道番組やニュース等で目にするからです。3.は12月1日にタレントを呼んだセーフセックス啓発イベントを数年前からしています。
 
 他にも、地味でおそらく一般にはまだほとんど知られていないと思うものに、
パーブルリボン→反DV運動
ホワイトリボン→「暴力(DV)をふるわない男になる運動」、途上国の妊産婦と乳幼児の健康と命を守る国際的な運動
オレンジリボン→児童虐待防止など子どものウェルビーイングに関する啓発運動

などがあったかと思います。

 もともと反DV運動は白をテーマカラーとしていたのでしょうけども、なぜか日本ではパーブルになっており、これは男女共同参画センターや女性団体では比較的知られているように思います。

イエローリボンは現在日本ではないのではと思ったものの、ググッてみると、「障害者自立支援法」に反対する当事者団体の運動のシンボルとして使われているサイトを見つけました。
http://www.normanet.ne.jp/~jadh/1031/1031yribbon.html
「私たちは、イエローリボンに、「障害者自立支援法」へのイエローカード(警告)という意味と、幸せの黄色いハンカチのイメージから「障害のある人びとの、その人らしい自立と社会参加をめざす」という2つの願いを込めました。」

 ピンクリボンがよく普及している理由は、ご指摘のことの他に、私は以下のようなことがあるのではないかと思っています。
 それは、マンモグラフィという検査機器の製造メーカーと医療業界の利権をめぐる結びつきです。X線写真を撮ることにより、触診では感じないほど小さいうち(早期)に発見できるようになったと宣伝されており、そのこと自体はそうなのでしょうが、日本全国の医療機関に隅々まで普及させようというメーカーがキャンペーンを支える資金を提供しているのではないでしょうか。

 反DVや平和希求は、そういう意味では利権がありません。

 ここ数年で急速に広がった感のあるピンクリボンに関しては、「女性の健康と命を守る」といった反対する理由のない目的と、人口の半分を占める女性のすべてを検査の対象として見込めること、マンモグラフィを医療機関に普及させたい開発メーカーの思惑などが重なったことが、促進の力になっているのではないかと感じます。

 「日常をよくする」指向も否定できないかもしれませんが、もしそうであれば、DVと子どもの虐待、高齢者虐待などのほうが、より緊急度が高いような気もします。が、これらは社会変革指向を伴わないと変化に期待はできませんよね。そうなると、社会を変革することなく、「女性が意識変革をして、毎年マンモグラフィ健診を受ける」ことだけを求めるピンクリボンが一斉に広まるのも、わかる気がします。女性が変わればいいと、考えているだけなのであれば。

 ちょっと毒のあるコメントになってしまいました(笑)。

えふさん
   ありがとう。こういう丁寧は返信と情報をいただけるので、えふさんのブログへの書き込みが病みつきになりそうです(笑)。
   「毒のあるコメント」ですが、とても参考になりました。僕の見方は、社会学者としては恥ずかしいほど甘かったです。利権の問題、女性の意識だけが変わることに熱心な問題、よくわかりました。
   DVに反対に日本で紫を使ったのは、白のリボンが反暴力一般で無く、反戦に使われたことの政治色を避けたものではないかと想像します。でも日本で紫は皇室の色だったので、現代がそういうことに拘泥しなくなったことはいいことです。
   アメリカ紫色と言うと、スピルバーグ監督の映画『カラー・パープル』が思い浮かびます。あの映画で紫は、宗教性を象徴していました。脇役で人種差別と闘い敗れる一黒人女性主婦を演じたオプラ・ウィンフリーを一躍有名にした映画です。 

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 病みつき(笑)。多少なりともご参考になることがあれば幸いです。

 反DVが紫になったのは、脱政治色を狙ったものだとは思いつきませんでした。

 『カラー・パープル』、たしかに、紫ですね。私もこれは観たと思うのですが、「なぜ紫なんだろう?」と思ったままにしていました。ストーリー自体をあまり覚えていませんが、ウーピー・ゴールドバーグが出ている点と、原作者がアリス・ウォーカーだということは覚えています。ウォーカーはFGM廃絶運動をしようとして、一部から「アフリカ系でも、先進国に生まれ育った者の、価値観を押し付けるな」というような批判が生まれましたね。

 オプラ・ウィンフリーは、アメリカでは知らない人がいないほど著名な方のようですが、私は民主党候補選びのときにオバマ側についた人として、ニュースで知ったくらいで、『カラー・パープル』に出演しているとは知りませんでした。もともと司会者だったわけではないのですね。

 『カラー・パープル』、もう一度観てみたくなりました。

えふさん
  アリス・ウォーカーの『戦士の刻印』(英文名Warrior Marks: Female Genital Mutilation and the Sexual Blinding of Women)のことですね。映画にもなりましたが、僕は見ていません、またおっしゃるような批判があるなんて知りませんでした(社会学者でも専門じゃないと知らないことも多くあります、ちょっと恥ずかしいですが)。それにFGM廃絶は当然じゃないですか。いわゆる「フェミニスト」と僕はやや距離を置いていますが、それでもFGMが重大な人権侵害の問題で、文化や価値観問題に相対化されてはならないと断言します。
   オプラはもとトークショウの司会ですが女優でもあり、『カラー・パープル』が1985年に大ヒットして注目をあび、1986年からロングラン番組のオプラ・ウィンフリー・ショウが始まりました。オプラの人気は庶民性です。実際はアメリカでもっとも裕福な黒人の一人ですが、チャリティへの貢献も大きいです。

   カラー・パープルはいい映画ですよ。ウーピーも優れた女優ですが、この映画では僕にはオプラの印象が鮮烈です。

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 社会学はただでさえ対象領域の広い学問なのですから、専門外のことでご存じないことがあっても当たり前かと思います。全体を隈なくフォローしていくと、専門がなくなってしまうような気もしますし。『社会学事典』にはなれるかもしれませんが。

 『戦士の刻印』よりは、『母たちの村(原題:モーラーデ)』(ウスマン・センベーヌ監督、2004年制作)のほうが、FGMを扱った映画としてはお薦めです。幼い子ども(女児)を持ち、自らはFGMを受けている1人の母親が、いまだその「慣習」を「伝統」とし、「施術をしない女の子は結婚できない」「施術をしていない女性と結婚するのは男の恥だ」(趣旨)との考えが支配的な村に住みながら、「FGMをした自分のからだがこんなにつらいのに、わが子にもよその子にもさせたくない」と固く決意し、村に残る「モーラーデ(聖域)」の宣言をし、施術を逃れて来た女児を文字通りからだを張ってかくまうというストーリーです。

 おそらく、ウォーカーを批判した文化相対主義者も、この映画の母は批判なさらないのではないかと思います。理由は、この女性が自文化の問題性に気づき立ち上がるのですが、立ち上がる前も後も現地の文化や社会経済事情の中に生きているからです。

 それと、FGMをされるのもするのも女性なのですが、自分もFGMを受けて苦しんだ経験をもつ高齢の女性が、なにゆえ同じ苦しみをまだ幼い女児に施さなければならないかの理由もわかりづらいところがあります。
 これは、「伝統は大切」といった信念や価値観の問題、あるいは、「無知無学」にとどまらず、施術者の経済的基盤(施術者は地位が高く、施術をすることで、御礼とお祝いの意味もあり、結構な謝礼を得ることができる。が、別の仕事はなく、これを手放すと生きることができない)という問題と、施術されない女児にとっての生存戦略(施術しない娘は「まともな」男性と結婚できない(=生存できない))がほとんどないことにも関連しています。
 アフリカの構造的な貧困問題と、現在ではFGM自体は「イスラム教とは関係ない」とは言われているものの、「女性を外に出さない」ことは宗教的な意味合いもありそうで、それらのつながりも描いているのかもしれません。

 つまり、FGM廃絶を主張する場合も、FGM施術を生業とせざるをえない&受けざるを得ないその国の女性の置かれた立場(労働市場の問題など)も考慮にいれなければ、単に「FGMは人権侵害だから即刻廃止すべき」と「啓蒙」するだけではいけないのだということだと思います。

 さらに、文化相対主義が批判したのは、FGMという行為を先進国で教育を受けた人間の感覚で思う「(人権感覚の)遅れている国の野蛮な習慣」との主張として受けとめたからだけでなく、その国の社会経済事情にももっと注意を払えという意味だったのかもしれません。

 私ももちろん、「FGMが重大な…相対化されてはならない」と思いますし、廃絶は当然との価値観をもっているのですけども。価値観の変更だけでなく、施術に変わる「生活できる女性の仕事」や、施術しなくても結婚に不利にならないようにするための教育(FGMをする理由の1つに、男性による女性のセクシュアリティ管理があると言われているので、受けなくても「ふしだら」にはならないと男女ともに教えるなど)も、必要かもしれません。

 フェミチック(笑)になってすみません。

 そういった経緯を踏まえて、日本でもFGM廃絶を支援する運動体「FGM廃絶を支援する女たちの会」(WAAF:Women's Action Against FGM, Japan)があります。95年の第4回世界女性会議(北京会議)で、当事者女性たちが廃絶のための国際的支援を訴えたことを契機に、その声に答えようと96年に設立されたそうです。
http://www.jca.apc.org/~waaf/

 アリス・ウォーカーの日本語訳でも知られているヤンソン柳沢由実子さんも関わっておられるので、もしかすると、ウォーカーさんとのつながりもあるのかもしれません。

 私が最近気になっているのは、FGMがもともとかなり昔からあった主に途上国の問題から、移民の受け入れと共に先進国で「進化」を遂げている点です。スウェーデンやアメリカでも「先進的な設備で」「より危険を廃して」「出身国のアイデンティティを保とう」と変形したFGMがあるようです。
 道具の進化(消毒もされていないさびた金属の破片と植物のトゲにツタ⇒滅菌された切れ味すばらしいメスと医療用針と糸)、麻酔の使用などをしてまで、自国文化を象徴するものを実践しなければならないのは、ここでも、無知だけでなく、そこまでして自民族アイデンティティを保たなければならないほど、移民国での暮らしが彼ら彼女らにとって厳しいものであることを想像させられるような気もして、なんというか言葉が見つけにくい思いになります。

 特に、北米や北欧で「輸入文化としてのFGM」が行われているそうですが、人権や社会保障など、日本から見ると、そこに生きる人間を大切にしているイメージのある国であることにも、複雑な思いがします。(これらの国ではFGMは法的に禁止されているようですが)

 そのいっぽうで、もともと古くから(一説には2000年前からと言われていますが)存在した地域や国では、その国の女性を中心とした運動により、村として禁止したり、国として禁止したり(セネガルなど)の動きも出てきているようです。法律がなかなか慣習を変更するための影響をもちにくい問題もあるようですが、それでも少しずつ廃絶の動きが広がっていくことは、廃絶すべきと考える私にとっては勇気づけられることです。

えふさん
  今日のご意見には、知識の違いがありすぎて、ちょっと圧倒させられました。よくわかったとはとてもいえません。一番分かりにくいところだけ質問します。始めに
  「つまり、FGM廃絶を主張する場合も、FGM施術を生業とせざるをえない&受けざるを得ないその国の女性の置かれた立場(労働市場の問題など)も考慮にいれなければ、単に「FGMは人権侵害だから即刻廃止すべき」と「啓蒙」するだけではいけないのだということだと思います。」
  というところですが、 『ライオンと鼠」のうウェンディーの想像ではないのですが、この文章に「FGM廃絶」を南米諸国における「薬物植物栽培」に置き換えると、薬物植物栽培と非合法薬物の輸出は単に悪いことだから規制しろと言う主張だけでなく、薬物植物栽培に変わる生計の道を与えなければダメだという主張と同じことを意味するのでしょうか。それなら納得です。
  もう一点。文化的アイデンティティの問題は難しいです。FGMを女性の性の抑圧の問題と捉えると(まさにそうなのですが)、当然文化と抵触します。しかし安全・衛生面だけの主張だけでは本質的でない。女性に教育を与えまいとしたタリバン政権の場合もそうなのですが、基本的人権(それがもともとは西洋の基準であっても)を文化より優位に置くことが必要と考えるからです。えふさんのお考えの中に、貧しさのよりどころとしてある人々が民族文化によりどころを求めるとき、それを頭ごなしに野蛮と決め付けることへの留保があると思います。でも、その留保にはFGMの場合疑問があります。FGMは女児の保護(人権)の問題で、それを行う大人の文化的選択の問題ではないと思うからです(これはえふさんも同意されると思います)。子供に選ぶ権利がないのが問題なのだと思います。
   それからセクシュアリティーの管理の問題は社会学の問題ではあっても専門外なのですが、道徳教育の問題(FGMをしないことはふしだらでない)であるよりは、その国・民族における女性の地位の低さの問題なのではないでしょうか。男性の「ふしだら」は容認されて(アフリカにおけるエイズ蔓延の主な理由は男性が複数の女性と同時進行的に関係する事です)、女性の「ふしだら」は否認されるからです。廃絶への「戦術」としてはFGMの道徳認知を変えようとすることも有効ではあると思いますが。
  すみません。関連知識に乏しくえふさんのように深く考えられないのですが以上感想です。
  ピンクリボンから始まって、今回は随分遠くまできましたね(笑)。
   
  

えふさん
   追加です。FGMをほどこされていない女性は結婚できないから、母親が子供のためを思ってするという論理は、清の時代の母親が女子に纏足と望んだ理由と同じです。でも纏足は女性の移動の自由を奪い、女性を男性に隷属させていました。
   人間は時折「適応行動」をとるために意図せず他人の加害者になります。子どもにFGMを望む母親も、子供に纏足を望んだ母親も、どこまでが本当に「子どもため」と心から思ったのでしょうか。その悲惨を自ら知っているはずなのに。慣習を踏襲することで、社会の批判を避けていたという利己的な隠れた動機はなかったのでしょうか。
   

山口一男さん、コメントありがとうございます。

 だらだらと書いてよりわかりにくくしてしまっているようで、すみません。

 ご質問の1点目は、「薬物植物栽培に変わる生計の道を与えなければダメだという主張」とのご指摘のとおりです。

 2点目の文化的アイデンティティの問題も、おっしゃる通りだと思います。「文化」をどう定義するかによっても変わってくるとは思いますが、文化そのものが女性抑圧的とまでは言いきれなくても、文化のなかにそういった要素が見られると言えることは多々あると思います。そこにある文化を全否定するのには躊躇があるものの、人権概念は人類共通の「発明」だと思うので、その発祥が西洋だからという理由で、西洋外の国や地域で否定するのには非常に大きな違和感があります。

 人類にとっての他の発明品(紙、印刷技術、自動車、電気などなど)は、世界中で利用して生活の利便を向上させたり豊かにしたりしているのに、思想的なものばかり、「人権概念は西洋発祥のものだから」と拒否するのだとすると、出自の問題というよりは、政治的な問題がありそうだと、どうしても疑ってしまいます。

 「その留保にはFGMの場合疑問」とのご意見、私も同じです。これは、文化を理由に正当化されるとは、全く思っていません。FGMは子どものうちに施されるものなので、おっしゃるように、女児に何らの選択権もありません(突然押さえつけられ切除されるまでは、何をされるのかすら説明されないようです)。そして、切除の際の出血や感染症を理由に、命を落としたり、命はとりとめてもその日から大人になってもずっとこの後遺症を引きずって生きなければならないようです。

 FGMもそのタイプは4類型とされ、もっとも過酷なタイプはFGM全体では15%ほどのようです。が、このタイプを受けた女性は、纏足とは違った意味で行動の自由を大きく制限されてしまうと聞きました。排尿に1回15分くらいかかり、そのたびに激痛とかいうのだけでも、想像を絶する生活です。

 セクシュアリティ管理は、女性の地位の低さにも相当関連が大きいと思います。文化と女性の地位の低さは、大きく影響しあっているように思います。女性の地位が低いから、変な文化や道徳を押し付けられているのに拒否することができないように機能しているというイメージでしょうか。FGMで言うと、当地では「FGMをしたまともな女」と「FGMをしないで不特定多数の男性の相手をする商売女」のように女性を上下に2分するように考えられているようでした。

 ひどい話続きで恐縮ですが、もっとも過酷なタイプのFGMでは尿と経血を出すためのすき間を残し、あとは縫い付けてしまうのですが、新婚初夜に夫となる人がナイフで切り裂くそうです(ウォーカーが『喜びの秘密』で描写していました)。

 人権概念も含め、教育の重要性は十分認識しているつもりです。とはいえ、まずは特に女性たちは識字率が非常に低いので、リテラシーから始めなくてはならないような気がします。次に、FGMと出産時の困難(妊産婦死亡率の高さ)との因果関係を示すこと、村長など権力と影響をもつ男性への教育も必要かと思います。

 母親など大人の女性の利己的な動機、全部とは言えないまでも、何割かは含まれているかもしれません。纏足のことはよく知らないのですが(すみません)、FGMに関しては、母親も受けているため、あまりの痛みとひどい生活にうつ病などに罹患しており、もしかすると、子どものことを考える余裕がないのかもしれないとも思うのですが。

 『母たちの村』の主人公女性が立ち上がり、反対運動を起こしたときに受けた制裁などを見ると、なかなかできることではないなと思いました。「批判」という言葉とは相当違うほとんど命がけのことなので。

 たしかに、最初はピンクリボンのことでした(笑)。辺境(?)までおつきあいいただきありがとうございました。

えふさん
   丁寧で、情報が多く、かつえふさん温かいのお人柄がつたわる返信をありがとうございます。今回の対話、多くの人に読んでもらいたい内容になりました。二人で対話しているのだけ(読んで下さっている人もいるかもしれませんが)ではもったいない内容です。FGMのことは、僕自身を含めよく知らない人が大多数だと思うのですが、特殊問題ではなく、文化と人権の問題、女性の地位と教育の問題、社会における性のあり方と女性差別のの問題、後進国の経済の問題など、重要な問題のすべてにかかわることなのだ、とえふさんのご説明で認識できました。「辺境」を見ることで「中心」が見えてくる事例だと思います。貴女と対話できて良かったです。ありがとう。
    

えふさん
  追加です。今回のえふさんの議論を参考に、FGMの問題への対処はどういうことが有効なのかを考えました。人権問題と訴えていく以上に、女子教育への援助が有効なのだろうという気がします。ユニセフだけでなく、世銀やFAOの低開発国経済援助・食糧援助などが教育の振興と男女の教育の平等を主たる目標にすべきなのだと思います。また教育援助といっても、貧困家庭が子どもを学校に送るインセンティブを高めなければならないので、給食(子どもは一部を家族のために持ち帰ることが多いそうです)、とか学校ではなく学校に子どもを送る家庭と子どもを直接援助する仕組みが重要になると思います。僕がそういうこととの直接かかわりることはないでしょうが、機会があればChobo!の人たちや、国際機関に勤める人と低開発国援助の話すときは、そういうことも意識して話したいと思います。

山口一男さん、ご丁寧にありがとうございます。

「辺境」を見ることで「中心」が見えてくる事例

おっしゃるとおりだと思います。自国文化は、馴染み過ぎているために、違和感を覚えにくい場合には、他国の事例をもってくると、「明らかにおかしい」と感じやすいかもしれません。

 ただし、こういった事例を持ち出して、日本の状況にも同じ要素を見出せるといいのですが、ひとつ間違うと「こんなひどいことがある国に生まれなくて本当にラッキーだった」と終わってしまうこともあります。

 「辺境」から「中心」を見るためにも、そのための視点が大切なのだと感じさせられます。

 国連機関でも、女児や子ども、女性の地位にかかわる領域を扱っているところでは、すでに取り組み課題にあげているところもあるのですが、その他の機関では女子教育の重要性を認識しているかは、わかりません。

 おっしゃるように、直接かかわることができなくても機会があればこういうことを話していくことは意味のあることだと思います。

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