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2008年10月21日 (火)

『Take My Eyes(英題)』、観てきました。

08

 夫の暴力に苦しみながら、女性はなぜ、そんな男と何度もやりなおそうとするのか。愛を訴えながら妻を殴る男とは、何者なのか。古都トレドを舞台にして、女優でもあるイシアル・ボリャン監督が家庭内暴力問題の内側に分け入った作品。(スペイン/2003年/109分)
(ストーリー)
 その夜、ピラールは身のまわりのものだけをカバンにつめ、一人息子のファンを連れて家を出た。結婚して9年、夫アントニオの暴力はとどまる気配もなかった。母のもとに身を寄せても、母は困惑を隠しきれない。アントニオにもすぐに捜し当てられてしまった。アントニオは言う、「ピラールは俺の太陽なんだ。彼女は俺に自分の目さえくれた」…。
 それほど愛し愛されているというのなら、彼はなぜピラールを殴るのだろう。女性はなぜ、自分を殴るような男と何年も一緒にいるのか。なぜ、「それでもいまだに夫を愛している」と思い、何度もやり直そうとするのか。そして周囲の人々は、なぜ沈黙を守るのか。古都トレドを舞台に、高名な女優でもあるイシアル・ボリャン監督が、ドメスティック・ヴァイオレンスに奥深く分け入って「愛と怖れについて描いた」と語る問題作。
(監督)イシアル・ボリャン
 1967年、スペイン・マドリッド生まれ。15歳のときにヴィクトル・エリセ監督の「エル・スール」で主演デビューしたベテラン女優で、長編の監督第1作「Hi, Are You Alone?」(95)は大ヒット、第2作の「Flower from Another World」(99)はカンヌ映画祭国際批評家週間の最優秀作品に選ばれるなど、監督業でも成功をおさめている。本作もスペインのアカデミー賞にあたるゴヤ賞の主要部門を独占、フランスのクレテーユ国際女性映画祭の審査員賞グランプリと観客賞である最優秀作品に選出された。
 監督は自身が女優でもある方でした。題名の意味は、ピラール(DV被害を受けている女性)が夫アントニオに自分のからだの部分を「目をあげる、足もあげる」などと囁くところから来ているようです。
 この手の社会問題を告発するようなタイプの映画を観るとき、いつも感じることではあるのですが、どうして直接的に暴力的な場面を使おうとするのでしょうか。この映画も何ヶ所か彼女が暴力をふるわれる場面が出てきます。つきとばされたりするのもそうですが、ひどいセリフを言われたりしているところなどを見ていると、本当にいやな気分になります。それを見ることを通して、被害のありようを疑似体験し被害者の気持ちを想像したりすることには、それなりに意味があるのかもしれませんが、なんとも大変なエネルギーを必要とすることです。
 暴力夫アントニオを演じる役者さんはスペインの方なのでしょうけども、もともとの造形的な面でも迫力のある容貌なのに、その人が恐ろしい形相で逃げた妻に迫って行ったり復縁を迫ったりするところが、恐ろしくてかないません。こういう深刻なテーマの映像でまで、恐ろしさを倍増するようなリアリティを追求しなくてもよいような気がするのですけども。効果を高めるために使われている音楽も、より一層暴力やストーリーの怖さを増しています。
 画像:Belugawhale MMC.jpg
 どうせストーリーが重い深刻なものなのですから、役者さんはシロイルカみたいに特に笑っていなくても笑っているような顔の方を選んだらどうかと思うのですが。そうすれば、ニコニコしている後ろに悲惨な暴力の存在を想像してみることもできるし、もともと怖い顔の役者さんだと観ているほうが緊張しっぱなしで、心臓その他の内臓にも負担がかかります。
 アントニオは、妻に対する思いが強いのですが、それが強い嫉妬につながり、さらにはありもしない妄想へと発展し、妻が別の男性と浮気をしているのではないかとか自分のことを嫌いになって立ち去ってしまうのではないかなど、よくない想像ばかりを掻き立てて盛りたてていきます。スペインにもDV男性のための自助グループがあるようで、そこでの活動の様子も描写されているのですが、カウンセリングに通っているにもかかわらず、なかなか論理的にはおかしな思い込みから逃れることができません。
 傍から見ていると、アントニオは、妻の自分への愛情を疑いますが、それは自分自身への自信のなさから来ているものです。だから、どんなに外から違うと言ったとしても、他者にはどうすることもできない部分、つまり、自分の弱さとの闘いのように、私には思えました。
 そして、これもおそらく客観的には冷静に考えることができるはずですが、アントニオは妻との関係を悪くする方向へ行くように仕向けていくようなところがあります。おそらく、意図的にやっているわけではないのだと思われます。してはいけない数々のことをあえてやっているように思えるほど、どんどん悪い方向へと行ってしまうような行動に出るのです。
 この映画を見ていて、予言の自己成就という言葉が浮かびました。最初に悲観的な状況を想定し、それにならないようにならないようにと思いながら、結局は最初に思い描いた悲惨な結末に自ら突き進んでしまうような、観ていると憐れさを感じずにはいられないのでした。男性ジェンダーの病の深さを思い知らされるような気持ちになりました。
 どのような事情や個人の内面の問題があろうとも、暴力行為そのものを正当化することはできないと思います。そして、どんなに同情すべき点があったとしても、ひどい暴力をふるったことに対する責任は、その人本人にあると思います。それを前提にした上で、どうすれば、自分にとって大切な相手との関係を自ら破壊してしまうような人間関係の持ち方しかできない人に、もっとマシな人間関係スキルの身につけ方について教えるような教育プログラムなり、有効な方法がないものなのかと考えさせられました。
 社会政策的には、被害に遭う女性への支援やまともな待遇の就労支援をまずはすべきと思うのですが、加害行為をくいとめなければ、被害はいつまでもなくならないように思うのです。
 それから、男性に対する社会の期待を変えることも必要かと思います。大きくて強くて泣かないことをよいことだとはあまり思わないのですが、世間ではこういう特徴はまだ高く評価されるようです。大きさは自分であまり厳密には決められないのですけども、弱くてすぐに泣くような男性がもっと評価されるといいのに、と思うのです。そういう無害タイプの繁殖をサポートすることは、無害タイプを世の中に増やしていくことになり、暴力のない世界の実現のために貢献するかもしれません。
 アントニオも、傷ついて悲しい気持ちになったときに、怒り暴力をふるうような表現をせずに、わんわん泣くような表現タイプの男性であったら、身近な人にとってはなぐさめなければならないのでやややっかいではありますけども、暴力のために大切な人を失うようなことはなかったかもしれないのに。
 サイコホラー作品としてもお薦めできるような、恐ろしい映画でした。

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コメント

えふさん
  映画を見ていないので、この映画その物については議論できないのですが、自信のなさがDVに結びつくことは十分あると思います。
  一般論なのですが、自信のない権力者ほど権力を濫用する傾向があります。自分の力を誇示することで自信のなさを補おうとするからです。マフィアの研究では、内部信頼が弱いマフィアほど、仲間が外部の者と付き合うと裏切りと見て、リンチや、場合によっては殺害する傾向があり、反対に内部信頼の強いマフィアでは、仲間の外部の者とのつきあいをビジネスや情報収集とみると報告しています。
  自信のなさが、身近なものへの信頼心のなさと結びつくとき、強制による支配や暴力に結びつきやすいのです。
  映画における男性主人公のDVは「愛する」というよりは「支配したい」相手に対し、それができないと暴力に訴えるということではないでしょうか。そういう性向を持つ男性がいることは残念ながら事実です。
  しかし、問題は女性の側にもあると思います。なぜ常時暴力を振るわれる女性が長年その相手と連れ添うのか。ケーススタディでは暴力を振るうときもあるが反対に「ものすごく優しい」時があり(それも往々にして暴力を振るったあとそうなり)、それでそのそ「優しさ」が別れをためらわせるとか。一体ここでいう「優しさと」は何だろうと僕など思ってしまうのですが。男女関係は多様で複雑です。
   「わんわん泣くような男性」が増えるには、そのような男性を魅力的と感じる女性が増えることが一つの条件ですが(進化ゲーム的発想だと)、伝統的分業ではそういう男性の「男性社会」での評価が低く、女性は社会的の成功する男性を好む傾向があるので、あわせて男性社会を変える必要があります。映画がスペインというのもその辺とも関係しているかもしれません。日本の問題でもありますが。
 

えふさん
  追伸です。シロイルカみたいな温和な顔のひとが見えないところでDVを振るう。それはかえってホラーではないでしょうか。その後シロイルカをほのぼのとした気持ちで見れなくなるのでそれも困ります。

山口一男さん。コメントありがとうございます。

 マフィアの研究でもそのような知見があるのですね。人望がないから無理やり縛らなければならないのは、どのような関係でも不自由ですが、そのようになってしまうしくみもよくわかる気がするので、複雑な気分です。

 DV男性の内面では、「愛」と「支配」が違うものとしてわけられているのかどうかに、疑問をもっています。

 DV被害を長年受け続けている女性に関しては、いろいろと言われていることがあります。言及されているのは、レノア・ウォーカーさんの暴力のサイクル理論ですが、これは、彼女が心理学者であることもあり、またバタード・ウーマン研究の初期の仕事でもあるため、やや個人の心理面に焦点化しすぎているところがあります。「ハネムーン期も、そんな気になっているのは、男性のほうだけ」と指摘する被害者の方もおられますので。
 長年暴力を受け続けていると、心身にも重大な影響を受けるので、ある意味で通常の人と比べて判断力が低下していたり、普通ならしない行動をとることも考えられます。
 映画では、何度か女性は逃げようと試みて、親や姉妹のもとに子どもとともに身を寄せるのですが、サポートをすべき母からは「夫の元に戻るべき」と諭され、妹からは「なぜ別れないのか、信じられない」といった言葉で非難されています。母のもとにも居られず、妹ととも気まずくなるため、身の置き所がなくなり孤立していくような方向に行ってしまいました。

 彼女だけでは十分な収入の得られる仕事もないし、子どもには父が必要だと言われるし、逃げると自殺するぞと脅されるし、彼女には死ぬかもしれないリスクを冒してでも逃げるか、夫の元に残って暴力を受け続けるかの究極の選択しかなさそうでした。

 社会的な諸条件が整ってなおも、それまでの関係を断ち切って夫を捨ててしまうことには、迷いが残るかもしれません。ここまでくれば、「男女のことはわからない」と思うのですが、逃げても生きられないような世界に住んでいるという認識が十分あることで、逃げないで死なないように生き延びるというギリギリの選択を、社会が女性にさせているように私には思えました。

 日常的に脅されていると、本当に「逃げることがばれてしまうと殺されるかも」と思うようになってしまうようです。DVカップルを対等な男女関係として捉えるとよくわからなくなりますが、監禁されていると思えばその苛酷さが想像しやすくなるかもしれません。

 異性獲得競争に優位になる男女の特徴はなかなか変わらないということでしょうか。私は「家内安全」や「人畜無害」に高得点を配分することを提案したいところですが(笑)。

 シロイルカを見てほのぼのできなくなると、私も困ります。たしかに、外は白いが腹黒いというのは、だじゃれにはなってもしゃれにはなりませんね。
 温和な外面で家ではDVというケースも実際にはままあるようですから、リアリティの追求においては、有効かもしれませんけども。

えふさん
  丁寧な返信をありがとう。
  「DVカップルを対等な男女関係として捉えるとよくわからなくなりますが」というところがDV問題の一つのポイントの気がします。暴力を振るう側の心理は、前に述べた自信の欠如の問題(とくに支配欲のつよう人間が)と深く関連していると思いますが、夫に暴力を振るわれても別れない妻の問題はまさに対等でないことが根本にあると思います。もちろん経済的自立ができないということが一つですが、
それだけでなく、社会的経験を通じて女性に健全な自律心・自尊心が育っていないと、相手にとって自分が必要であるという意識にアイデンティティを求め、暴力を振る相手でも、それが相手の孤独のせいであるなら、その相手の孤独を緩和することに自分の存在意義を感じる女性もいるからです。
  昔のイタリア映画の「道」のザンバノに対する、ジェルソミーナの悲劇もそこに通じています。貧困の問題も深く関係していますが。
  実質的監禁というような暴力支配の問題であれば、社会的救済の問題ですが、そうでない場合やはり男女共に健全な自律心・自尊心が育ち、かつ経済的に男女の平等な社会の実現が、遠回りのようでも絶対に必要と思います。

山口一男さん、ありがとうございます。

 「社会的経験を通じて女性に健全な自律心・自尊心が育っていないと、相手にとって自分が必要であるという意識にアイデンティティを求め、暴力を振る相手でも、それが相手の孤独のせいであるなら、その相手の孤独を緩和することに自分の存在意義を感じる女性もいるからです」

 このご指摘、おっしゃるとおりだと思います。そして、今後の方向としておっしゃっていることにも賛成です。

 日本のDV施策においても、さまざまな要因についてバランスよく議論できるといいとは思うのですが、まだまだ女性側にのみ暴力の原因をもとめようとする見方が根強いため、不用意に女性の心理面に言及してしまうことに対するリスクが高いように感じてしまいます。女性が低い自尊心しかもてないような社会状況を理解した上での議論ではなく、本質主義に陥るような方向に行きがちなことが、こういった議論を忌避しがちな理由かと思っているのですが。

 加害者になりがちな男性のほうも、決して健全な自尊心を育てられるような状況でもなさそうに感じるので、「男女ともに」大切にされる経験や、具体的な方法を知る機会の提供が必要なのではないかと思います。

 『道』大変有名な映画ですよね。私は観たかもしれませんが、あまりストーリーが記憶に残っていないので、あまりきちんとは観ていないかもしれません。少なくとも、DVの要素がある作品とは知りませんでしたので、観てみたいと思います。

 しかし、「人に必要とされたい」という気持ちは、健全な自尊心を育てていたとしても感じるはずのもののような気がしますし、人と一緒に生きるためには不可欠な感情のような気もします。おそらく、これもほどほどというか、適正な程度のといったものが大切だということなのでしょうけども、「必要とされたいけれど、さほど激しく必要とされなくても、自分としてまとまっていられる」というバランス感覚は、言うは易しというか、むずかしいような気がします。

えふさん
  「道」には暴力の要素はありmざすが、DVというのとは違います。引用が不適切でした。、

  「まだまだ女性側にのみ暴力の原因をもとめようとする見方が根強いため、不用意に女性の心理面に言及してしまうことに対するリスクが高いように感じ」「本質主義に陥るような方向に行きがちなことが、こういった議論を忌避しがちな理由かと思って」ですが、僕はDVの解釈についての日本での議論について知識が不足していてえふさんがこれらの文章で何を言おうとしているかについてよく理解できません。若しよろしければご説明くださるとありがたいのですが。

山口一男さん、ご質問ありがとうございます。

 DVの原因や責任を女性にだけ帰属させようということについては、たとえば、「暴力をふるわれる女性が悪い」「男性はこのくらいのことはするのだから、それをよくわかった上で上手に操縦するものだ」「夫婦喧嘩に多少の暴力はあっても当然だ」といった考え方はまだ根強くあります。
 食事の準備ができていなかったためにDVに遭った女性に対しては、「疲れて帰ってきたのに食事の準備ができていなければ、怒って当然」(「怒って」に「殴られて」も含まれます)などと第3者に言われることもまだあるようです。家が片付いていないことを理由に暴力をふるわれる場合でも、第3者の見方としては、「家事の責任は両方にあるのだから、妻が片付けられないときには夫が片付ければよいのではないか」と考えるよりは、「仕事で疲れて帰ってきているのに、家がきれいじゃなければ(ダメな妻で)、そういう妻には暴力で制裁(しつけ)を加えて当然」という考え方もまだ強いようです。

 カップルを取り巻く周囲の人や相談員・調停員などにおいても、自分のもつ男女関係に対する「常識」や規範意識をそのまま助言として発言してしまうこともあり(職務関係者研修では二次被害の防止に努めるようにとされてはいるのですが)、DVの責任を女性のみに求めがちな傾向はあると言えるでしょう。

 そのような状況のもとですと、もともと女性の行動面や心理面に問題があるためにDVが起きているという考え方の前提があるのですから、さらに、ご指摘のようなもっと深い意味での問題について論じようとしても、意図とは別に、もっとずっと表層的なところで、「夫に殴られるような妻はもともと問題があるのだ」とか「殴られているのにそこに留まるのは、そういう暴力的な関係を女性も楽しんでいるのではないか」と決めつけられたり、「男とはそういうものだ。それをうまくやっていくことが大切なのだ」「せっかく結婚したのだから、もう少しがんばってみれば?」「結婚は我慢よ」というような「女性が行動を変えて暴力をふるわれないように対処すべき」という「心得」に終始してしまうことになりやすいのです。

 前回の「リスク」で言いたかったことは、上記のような議論に終始してしまうと、社会政策として、女性の逃げ場であるシェルターの整備や自立支援のために必要な施策のあり方を議論して、社会制度を整えたりDV啓発教育を行っていくことでDVを受けなくても済む社会の実現を目指すような方向へと話を進めたいと思うような政策・施策の議論の場で、「女性が個人的な対応をとることでDVに対処すべきだ(個人的に解決すべきだ)」との方向に行きやすくなり、そうすると、必要な予算を計上することもできなくなっていくのではないかとの懸念が生まれるというような意味でした。

 「本質主義」という言葉が適切だったかどうかわかりませんが、DVの発生原因を女性の地位の低さという社会的な問題として捉える立場から、暴力的な男性を好む心理をもった女性の内面の問題という個人的な問題へと収斂させてしまうような、つまり、「女とはもともと乱暴な男を好む性なのだ」というような性別に見られる特性に社会的な影響を認めないような立場からの議論を呼びこみやすいという警戒があるのです。

 驚かれるかもしれませんが、基本法制定以降、「昔に戻ろう」といった反動運動も盛んになっておりますので、日本の状況においては、いまだこういう議論にならないような注意が必要なのです。というのは、私の解釈なのですが。

 過不足のない説明があまりうまくできない上に、うまくお伝えできているかどうかも、ちょっと自信がありませんが。

えふさん
  丁寧な説明をありがとうございました。よくわかりました。日本でのジェンダー・フリー論争で、例えば(僕もそうですが)、男女の機会の平等だけを強調する立場は、「性別特性論」を前提にしているのでおかしい、というような日本フェミニストの批判があり、「男らしさ、女らしさ」など自己表現の問題で、そんなの否定するなんておかしいよと(日本よりはるかに男女の平等なアメリカだってそんなの否定しないし)と米国在住が長くて単純に考えていた僕も、家庭内ばかりか企業も前提とする日本の性的役割分業の実態を知った結果、子供の時から男女の固定的役割分業を強化するような育て方はおかしいと思うようにはなっていたのですが、今日のえふさんの説明でもっと根が深いことが分かりました。
  「本質論」とえふさんがいったのは生物学的「性別特性論」のことなのですね。「女というのは(あるいは男というのは)本質的にこういうものだ」みたいな。「昔にもどろう」といういわゆるバックラッシュが、こういう考えだにもとづいておりそれが性別規範をともない、またDVの解釈にまで影響を与えるなら、意図せずとも女性に自由を制限しようという考えに導きやすく、形の違いはあれ根本は纏足と通じるものだと思い大きな問題だと思います。女性を家庭内に閉じ込めようという点で。
  問題は「男だから」「女だから」何々すべき、すべきでないという性別で特化された規範を絶対に認めない・許さないことだと思います。男女の生物的違いが、男女の選好や行動の違いを生むか否かは、不毛な論議で、そこに話を持っていこうということ自体社会的に作られた男女の不平等の解消から目をそれさせようと意図を感じます。僕は「ジェンダー・フリー」論者ではなく、性別を含めた社会機会の平等化と、ダイバーシティ推進を提唱していますが、今日のえふさんのご説明の内容の実情に付いては今後きちんと頭と心の中においておきたいと思います。ありがとう。
 
     
  

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