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2008年11月22日 (土)

Because I was a girl.

India_4

 2008年10月22日付東京新聞(ここ)で取り上げられた、インドの少女の状況を描いたドキュメンタリーを観てきました。

 このイベントの主催は、日本にも事務局をもつ国際NGOで、日本の団体はプラン・ジャパン(ここ)と言います。

プラン・ジャパン 秋の映像上映会 「Is this life? ~インドの女の子たちの現実」(ここ)と題されていました。

 先月、東京新聞と読売新聞に続いて取り上げられたこともあり、当初予想していたよりもたくさんの視聴希望者の申し込みがあったということでした。それで、2日予定されていた上映会ですが、急遽、予定を増やして19日夜の時間帯にも開催することになり、私も参加できたのでした。

 平日なので、多くの人は仕事帰りだったと思うのですが、もともと定員一杯になる予定で、そんなに広くない部屋に並べることができるだけの椅子を配置してありました。時間の途中で遅れて到着した人たちは5人ばかり立ち見をされていました。

 このようなことから考えて、かなり高い関心をもたれていることがわかりました。

 上映会は、最初に、プラン・ジャパンの概要や活動内容の紹介があり、上映される6本の短い作品がどのような意図で制作されたのかなども簡単に説明してくださいました。フィルムは、インドの小学生くらいの子どもがナレーターを務める作品もありました。

 インドという国に関しても、簡単に説明を受けたのですが、印象に残ったのは、男女格差が非常に大きい点。教育を受けられるかどうかもですが、もっとも基本的な識字率について、全人口で男性が52%、女性が27%だそうです。さらに、インドでは子どもの13人に1人が5歳の誕生日を迎えることができない現実。

 これらに対処しようと、「途上国の女の子に笑顔を!キャンペーン Because I am a girl」(特設サイトはここ)を展開しているそうです。

 上映された6作品についても、印象に残った点や特に気になったところを簡単に書いておきます。

 女の子が学校に行けないのは、過重な家事が義務付けられているからですが、水汲みが女の子の仕事とされ一日かけて出かけて水を汲んで戻らなければならないことや薪を集めに山に行かなくてはならないことも、女の子の仕事とされています。これらは結婚するまで毎日課されることだとか。

 別の作品では、貧しい家ではすぐに裕福になることを目的として11,12歳の女の子に売春をさせているところがあるそうです。しかし、現実には裕福になる例はないのだそうです。

 ジャナットという名の女の子は、父の母に対する暴力(DV)の結果、母が焼身自殺を図って亡くなってしまったのですが、自殺の場面を目撃しました。ひどい話です。貧困家庭では、父や兄など家族の男性成員から性的搾取を受けている女の子も多く、家の中も決して安全で安心に暮らせる場所ではありませんが、家の外でも通りすがりの成人男性からレイプされる危険とともに生きているのだとか。これでは、居場所がありませんね。ナスリンという名前の女性は、夫に別に妻子がいたことがわかったので、それについて言及したら、怒った夫に暴力をふるわれたあげく、強い酸を顔にかけられたそうです。これは、acid burningと呼ばれて問題視されていることではありますが、実際に、こんな目に遭っている女性がいるということが、実感的にはなかなか理解できないです。

 4つ目の話は、結婚にかかわる持参金の話。男性側が「花嫁代」を払う習慣と、女性側が「持参金(ダウリ)」を払う習慣とがあるようですが、親の世代では「花嫁代」を払っていたのに、自分の世代では「持参金」を払う習慣にかわったとか。

 5つ目は、「神の妻」として生きる女性の話でした。他のことは、これまでにも多少知っていることではあったのですが、これについては初めて聞く話で衝撃を受けました。「神の妻」は現地語では「ジョギニ」と呼ばれているもので、これになってしまうと、人として生きることが許されないのだそうです。簡単に言うと、村の男性たち全員のための性的な利用資源となることです。つまり、いわゆる村中の男性の妻で、伝統の性的搾取的な慣習とでも言うのでしょうか。貧しい家の女の子が選ばれるようです。そのような存在を「神の妻」として、ある意味持ち上げるような表現は、どこかの国でも「菩薩」というのと似ていますね。私には二重の意味で嫌な気持ちになることでした。ひとつは、女性を性的に搾取することが存在していることに対して。もうひとつは、それを「神の妻」と美化してしまう感性に対して。

 6つ目は最後でしたが、多少希望のもてる内容でした。プログラムの構成としては、最後にするのは正解だと思います。少女のための学習キャンプの話。キャンプは6ヶ月間で、この期間に小1~5の教育を受けるのだそうです。43の村から100人の女の子がやってきて、集団生活を送りながら、リテラシーにかかる部分だけでなく、もっと生活に密着した基本的なこと、たとえば、歯磨きをすることの意味、石鹸を使うなど、衛生にかかわる知識と具体的な方法の重要さを学ぶことも含まれます。さらに、全員で一緒に食事し眠る生活から、最初はカーストの違う者同士は避け合っていたのですが、徐々にカーストから自由になり、一緒に食べ眠るようになるそうです。キャンプに来ている少女の大部分はすでに「早すぎる結婚」をしているとか。「早すぎる結婚」問題は、弊害のひとつに、家事があるから学校へは行かせられない、つまり、教育が受けられないことなのですが、文字の読み書きだけでなく、先ほどの衛生のように、生活に必要な知恵を学ぶ場としても機能しているそうです。

 そもそもの映像制作コンセプトがそうなのでしょうが、貧困であることと女性(女児)であること、そして、カースト制度とのかかわりなど複合的な差別を描いているものが多かったです。もっとも強く印象に残ったことばのひとつは、以下です。

貧困家庭の女の子は、生まれてくることが最大の罪。

【補完情報1】インドの男女格差指数について

 「The Global Gender Gap Report 2008」と題した記事(2008年11月13日付ここ)でも、取り上げましたが、インドの「男女格差指数」については、少しだけ触れた程度でした。

 今日は、もう少し情報を追加しておきます。

 総合ランキングでは、113位(2008年)、114位(2007年)、98位(2006年)です。4つのsubindexでは、
Economic Participation and Opportunity------125位

Educational Attainment--------------------116位 

Political Empowerment---------------------25位

Health and Survival-----------------------128位

【補完情報2】acid burningについて

 ここのサイトに、acid burningについての情報がありました。パキスタンでは今でもこのようなことが起こったいるようです。一般に、acid burningとは、皮膚にかかれば少量でも皮膚に多大な損傷をもたらす強い酸(塩酸、硫酸、硝酸など)を女性の顔に向かってかけることで、女性の顔に相当の、場合によっては修復不可能なほどのダメージを与えることを目的として行われる行為です。gender-besed violenceとされているので、いわゆる「女性に対する暴力」の一形態として捉えてよいのだと思います。

 サイト自体(トップはここ)は、honour killing、つまり、いわゆる「名誉殺人」に反対しやめさせようとする運動のキャンペーンサイトのようです。

【補完情報3】「神の妻」「ジョギニ」について

 「神の妻」でググっても何も出てきませんでしたが、「jogini」で試してみると、ヒットしました。たとえば、ここでは、以下のように明確にプロスティチューションとしています。

jogini

Jogini are women forced into prostitution by a religious custom known as devadasi in India. Young girls are married to a local deity and afterwards it becomes their religious duty to provide sexual favors to the local men, usually those of the higher castes.

This religious practice was banned in 1988, but the law is not being enforced in all parts of India.

deityは、「神位、神格、神性」といった意味です。

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コメント

えふさん
  この記事をありがとう。この記事も映画を見なかった多くの人に読んで欲しい記事です。これらの事実はそれを知れば人間をおぞましく思い嫌いになるかもしれないし、この世に男と女の区別など無ければよいとさえ思うかもしれません。神聖(神の妻)、正義、名誉、これらや他の多くの美名という偽りのもとで、これまでどれほど多くの男性が戦いにかり出されて命を失い、またどれほど多くの女性が性奴隷にさせられたか分りません。人の命を何よりも大切をすること、人の自由を尊ぶこと、たったそれだけの単純で明快な原則すら、この科学と理性の進んだはずの現代で未だ実現からほど遠いのです。
  でも貴女のこの深刻な記事が「いい夫婦の日」についての軽妙な記事や、「生姜いり浴剤」のほのぼの記事に挟まれているのを見ると、そこにホッとするものがあります。今回の記事や、FGMの記事、例えそこにあることが深刻な事実であり知っておかねばならないことであっても、それが人間の生活のすべてでは無いこともまた事実だと思い出させてくれるからです。私たちは日々幸せに毎日を生きることを優先してよいのだと。でも生命と人権を守ること。これだけは、選挙であれ何であれ、私たちひとりひとりがわずかな力でも社会で行使できるときは譲っては成らないものだと思います。神聖、正義、名誉、その他どのような大義名分であろうと下においてはならないものだと思います。今日はちょっと肩肘張りすぎですね。すみません。

山口一男さん

 ありがとうございます。本当にそうですね。

 さまざまな悲惨なことを美化することで正当化しようという傾向が私たちにあるような気がします。

 私がフェミニズム思想が好きなのは、理由はいくつもあるのですけども、おそらく、もっとも根源的なことは、「みっともなくても生きろ」と教えるところです。これは、「美しく死ね」に真っ向から対抗する思想です。

 「かっこよく死ね」と教える思想は多い。これらは、そこに行きつくまでの理屈が何だろうと、全くもって間違っていると思います。そういうものに魅かれてしまうのは、日々を楽しく生きられない事情があるからでしょう、たぶん。

 日常に楽しみを見つけにくいのは個人だけの責任ではありませんが、だからといって、非日常をもとめたり戦争をもとめたりするのって、どうなのかしら。そうしないための暮らし方があるような気がするのです。

 いい入浴剤を探すとか(笑)。

 自分が嬉しそうに生きていると、周囲の人にも伝染しますから、ここはひとつ、自己チューに、風呂にでも入ったらいかがかと、都合よく考えたりするわけです。冷えますしね。

えふさん
  フェミニズムの思想は「みっともなく生きろ」って、そうなんですか? 貴女と話していると時々社会学者として知っていて当然なのに知らないことを言われて当惑するのですが。でも、勉強になりました。でもそれならなぜ、フェミニストで歯切れの良いレトリックを好む人が多いんだろう。
  いずれにせよ、個人的には「美しく死ね」より「みっともなく生きろ」のほうに共感します。でもこと「美意識」が関係することは、ダイバーシティーというか個々人にゆだねてよいと思う気持ちも強いのです。ですからかりに「美しく死ぬ」ことに「みっともなく生きる」ことにより価値を置く人があっても仕方が無いと思いもします。また「恥」や「名誉」と言うのは内面的な道徳としては価値のあるものだと思うのです。で、問題は何かと言うと、それが「個人」を超えて「共同」を志向することの危険です。人の生命に関することが個人道徳を超えて規範になることに危険です。規範は心理的強制を生み出すからです。典型的には「生きて虜囚の辱めをうけることなかれ」とした戦陣訓です。これは多くの人を死に追いやり、集団自決を生み出しました。要は人の命を大切にすることを何よりもまず第一に考えよということだと思うので、「美しく死ね」ではなくそれよりは「みっともなく生きろ」を主張することは賛成ですが、仮にどうしても「美しく死ぬ」ことを好む人間がいた場合にはその価値観を自分だけの問題として、それを決して人に強要するな、押し付けるな、生命は個人の尊厳の問題で他人がとやかく言うべきでは決してない、という主張を合わせてする2段構えが重要だと思います。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 「みっともなく生きろ」ではなく、「みっともなく『ても』生きろ」なのですが、ちょっと説明不足でした。これを書いたときに念頭にあったのは、

上野千鶴子著『生き延びるための思想ージェンダー平等の罠』

でした。本書の内容を簡潔かつ要約的に記すことはむずかしいのですが、アマゾンなどの説明には、「死ぬための思想」と対置させて、

「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」としてのフェミニズムの立場

と書いてあります。

 「かっこよく死ね」⇔「かっこ悪くても生きろ」

のほうがわかりやすいかもしれません。

 それと、もうひとつは、従軍慰安婦や性被害に遭った人の中には、「穢れてしまった。もう死んでしまうしかない」といったような心境になる人もおられるようです。が、そこでも、「貞操を守る為なら死ぬべきだった」に対し、「どんなにひどいことになったとしても、生き延びて生還してきてくれてありがとう」といい、ヴィクティムではなく生き延びてきたこと、それだけですばらしいといった敬意を込めて「サバイバー」と呼んだりします。こういうのを、私はフェミニズムに含まれることだと思っているし、それらのことを合わせて言っているつもりでした。って、言葉が足りなさすぎですけど。すいません。

 「美しく死ぬ」思想の人が、人に押し付けないことは大切だと思います。ただ、私なら、「美しく死ぬ」人を説得して「改心」させ、生き続けさせることができないか、考えちゃうかもしれません。その人の周囲にも、その人のことを大切に思い、生きていてほしいと思う人がいるんじゃないかと想像すると、「勝手に死ぬな」と思ってしまうからですが。残される人のことを考えないのは身勝手だと思うので。

えふさん
  説明をありがとう。でも今日の説明は、説明をいただいたあとでも、やや違和感があります。上野さんのその著書は読んでいないので批判は拙速なのですが、「弱者が弱者のままで。。。」というときの弱者という言葉が気になります。「残されたことの人を考えないのを身勝手」という書いたえふさんの言葉も気になります。僕は人にはさまざまな理由があって、そういう思いがこの問題に(自殺の問題)には付きまとい、上野さんも、そして今回はえふさんも、歯切れが良すぎると(一般論をいいすぎる)と思います。
  一例をあげます。数年前シカゴ大学の法科大学院学生がレイプにあい、彼女は犯人逮捕に積極的に協力し、裁判で証言をし、犯人の刑が確定(アメリカでは裁判はすぐ結審します)の後、自殺するという痛ましい事件がありました。将来は弁護士希望の気丈と思われた女性だったのです。もちろん僕は、個人的には知らない学生ですが、彼女に死なないで生きてほしかったし、同じ年頃の子を持つものとして、親の悲しみは想像にあまります。なぜこんな例を出したかというと、彼女は「弱者」でも「身勝手」だとも思えず、ただ痛ましいからです。世の中で「弱者」といわれる人は、往々に適応力も我慢強さもあり「サバイバル」します。「弱者」ではないが、レイプという事実にそれまでのアイデティティとの認知不協和に耐えられない人が時折命を絶ちます。もちろんそれも一種の弱さだという人もいるかもしれません。でも僕はそんな風に言ってほしくない。弱いか、強いかなど、人の心の中のことに簡単に裁断などすべきでないと思うのです。身勝手というには重すぎる事実です。自分の命を大切にして欲しかった、僕にはただそれだけです。
  性被害者やDV被害者をフェミニストが「サバイバー」と言うのは知っています。でも「どんな被害にあっても、生き延びよ」はフェミニズムに限った思想ではなく、ヒューマニズムに広く共通に見られます。戦後の今村昌平の『豚と軍艦』でもレイプにあっても生きる決意をする女性を描いています。DVやレイプは、日本では政府でも男女共同参画問題の一部とされていますが、それはえふさんがインドの記事でも書いたような文化に埋め込まれた男性支配の問題が絡んでいるからです。ですから、フェミニズムが被害者側にたって発言するのはわかります。暴力や強制を憎むのは僕も同じです。でも、人の心の中のことは、そしてその先に行きついた選択のことは、他の人間に大きな迷惑・被害を及ぼさない限り、個人の自由にさせていいのではないでしょうか。たとえそれが死の選択であっても。人は他の人間にはなれないのですから。もちろん自殺を肯定などしません。命の大切さを訴えるのは何よりも重要です。でも尊厳死の場合もそうですが、最終的には僕は個人の意思決定を尊重しますし、それを他人がとやかくいうことを好ましく思いません。

えふさん
  蛇足です。僕が自殺した女子大学院生が「身勝手でない」と書いたのは、もちろん辛い気持ちを我慢して、犯人逮捕と罪の決定への、目撃者としての社会的責任をまっとうして後自殺したからです。なんてすごい女性だったのだろう、素晴らしい弁護士になれただろうに、と人を惜しみます。もちろん育ててくれた親の気持ちはどんなんだという人もいる知れません。でも自分を愛している人たちだからこそ、自分の選択を理解してくれるに違いない。彼女はそう思ったに違いないと僕は想像します。「ミナ」が第2の関門のところで、思い悩んだ末そう思ったように。もちろん「ミナ」の選択は良いよく生きるためのものでした。でも「生きる」ということと「死ぬ」ということは、全く正反対のようでありながら、時には近く感じられることなのです。それは非日常的覚悟をしなければならない時に起こります。だから、逆にいえば、人々が非日常を想定しないで生きられる社会が望ましいのですが。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 「歯切れがよすぎる」の意味がわかりました。たしかに、そうでした。

 上野さんの著作については、これ以上言うのは差し控えます。私が書いたことについては、もう少し補足をさせてください。

 私は、自ら死を選ぶ人のことを「弱い」とか「身勝手」と言いたいわけではなかったのです。昨日のコメントではそのように読めますけども。私もそういう選択をした個人は、相当程度の理由とそうせざるをえない辛さがあったのだと思います。ただ、反対に、「勇気があった」とも言いたくない。「痛ましい」とは思います。でも、それだけでもない。

 そうではなくて、彼女にその選択をさせずに済むようなことはできなかったのか、とどうしても考えてしまいます。つまり、社会的な支援体制に反省の余地は全くなかったのかということです。もちろん、アメリカの性犯罪に関するサポート体制は、日本との比較では相当程度進んでいることは聞いています。が、まだできることはあるのではないか、とも思うわけです。

 こういう話は、私はどうしても「周囲の残された人」の立場から考えがちなのですけども、身近な人を自殺で失ってしまった場合、痛ましく思い、故人の理由を納得できるようになるには、かなりの時間がかかるのではないかと想像するからです。身近であればあるほど、自分のせいではないかと考えるし、その罪悪感や圧倒される現実のつらさから逃れたいために、別の周囲の人に原因を求めたりしたくなると思うからです。死因がたとえ病気だったとしても、残された周囲の人たちへの人間関係に与える打撃は非常に大きいと思います。当然、そのつらさをみんなで乗り越えようと絆を強める方々もおられるとは思います。いっぽうで、このことを起因として、残された人同士の関係に修復不能なダメージを与えることもあると思うのです。

 そのようなことを考えてしまうので、諸条件が整っており最終的にはその人の意思が尊重されるべき、ということは部分的には賛成ですが、条件のなかに、「周囲の納得」をなんらかの形で組み込むことが必要ではないかと思います。たとえば、病気の場合、「当時の医学ではもうどうしようもなかった」とか「緩和ケアをしても、取り去ることができない痛みがあり、本人が激痛に苦しみ続けていることから、もう解放してあげたい」などと思えるような何かがある、といったことですが。

 私は自分自身の命だとしても、自分だけのものだとは考えにくい。最終処分権があるのでしょうか?このあたりのことは、とてもむずかしくて、なかなかどちらとも言えないです。

 尊厳死の問題は、私も全否定はしない立場です。ただ、この問題に否定的な立場をとられているのは、日本では障碍をもつ方々や周囲の人たちで、文脈は「役に立たないと思われる人の命が軽視されることにつながる」ことへの警戒感が強いから、ではなかったかと思うのですが、違うかもしれません。

 おっしゃるように、こういう種類の問題を一括して大雑把に論じることに、そもそも無理があると、私も思います。そして、お書きになっていることに、大部分は同意しています。ただ、私には残された人の心のなかにあるのは「痛ましさ」だけとは考えにくい。そんなに美しくはないと思います。そこが相違点かもしれませんね。

 「死ぬ」と「生きる」は、私にとっては、非常に近いところにあります。理由はうまく説明できないのですが。

 「いざとなったら、守ってやる」と言うよりは、「いざ」を起こさない日常的努力が大切だと、私も思います。

えふさん
  お考えのていねいな説明をありがとう。今回のえふさんの説明には違和感はありません。この問題は難しいと思います。尊厳死について、「美しい」言葉が悪用されることの警告は了解しました。

えふさん
  追加です。「痛ましさ」だけではない。そんなに美しくはないというのはわかります。残され人は自分を責め、関係した他人を責める、取り返しのつかないことというのは常にそういうものでしょう。僕はシカゴの学生をただ痛ましいと感じたのは、所詮他人だからです。

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