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2009年1月11日 (日)

「貧困ライン」の設定をするにも、データなし。

 ダイヤモンドオンラインの連載で「辻広雅文 プリズム+one」というのがあるのですが、【第58回】 2009年01月08日で「自民党と民主党は“貧困ライン”を設定し、貧困撲滅を政権マニフェストに掲げよ」(ここ)というのを見つけました。辻広雅文さんは、ダイヤモンド社論説委員だそうです。

 日本では貧困の実態を統計的に把握できていないことを批判なさっています。が、これは、【第4回】 2007年11月28日の段階で「貧困をイデオロギー問題として捉えた日本の不幸」(ここ)として書かれていました。

 実態は、ほとんど何も分かっていない。

 最大の原因は、日本政府が1966年に貧困層の調査を打ち切り、再開していないことにある。議論の土台となるデータがないのだ。

 政府、というより私たち日本人全員が、戦後の困窮期を抜け、高度経済成長を経て、豊かな社会実現した自負からか、もはや貧困はないものとしたのである。

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

『現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(岩田正美著、2007年)

 辻広さんの第4回でも紹介されていますが、『現代の貧困』、いいです。2007年に読んだのでもうだいぶ時間が経って記憶が定かではありませんが、最初に、「格差」と「貧困」の違いについて書かれてありました(と思います)。「格差」は価値中立な言葉であり、つまり、「格差」があるとかないとかは単に状態を示しているだけなのですが、「貧困」という言葉はそれ自体に価値判断を含む言葉であり、ある状態を「貧困」であると言うことは同時に、それはあってはならない状態だと言ったことになる、というようなことをおっしゃっていたと思います。

 先に書いた辻広さんの連載では、【第56回】 2008年12月18日「“派遣切り”の加速は、企業の本質を理解できない政府の自業自得だ」(ここ)でも、政府と企業経営者を批判されています。制度を作っても守らない企業に対して、これまでそれを守らせるための努力をしてこなかったことが、守らなくてもよいという態度を作ってしまったのですね。

 【第54回】 2008年12月04日「「派遣切り」は止められるのか ~雇用不安の深層を湯浅誠氏(NPO自立生活サポートセンター・もやい事務局長)に聞く」(ここ)では、「年越し派遣村」の村長をなさっていた湯浅さんにインタビューをなさっていました。

 非正規を軽視することで正規社員もいずれ同じような道をたどるようになることや、不安定雇用者が増えることで社会不安が増すこと、結局社会保障費が増えるしかないことなど、誰にでも簡単にわかりそうなものですが、そうでもないのでしょうか。

 ここにきて、7年ぶりのワークシェアリング議論が春闘の議題になりそうだそうです。経営側は都合よいのでしょうし、組合側は正規社員の立場に立ては賃下げですから、反対するでしょうねぇ。組合が歴史的に正規社員のことばかり考えてきたことも、こんなことになった理由の1つではあると思います。正規だけで組合を作って非正規を排除してきた、そのツケを払うのは非正規も一緒なんですね。いいことはないが、嫌なことは一緒に、っていうことなんでしょうか。こういうのって、「身分」という言葉がしっくりするような気がします。

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コメント

えふさん
  今日の記事は重い内容ようですね。えふさんもいつになく辛らつですが当然です。辻広さんの記事は示唆に富むものですが、貧困をないものとして政府が統計すら取ることを辞めてしまったというのが一番衝撃的です。人権問題の多くある国々では、「わが国には人権問題は無い」として調べようとすらしない所も多いのですが、そのメンタリティーと通じています。戦前の過去の日本の歴史の問題も、極力なかったものととする一部の人の傾向も同じです。
  まず事実を直視するという、ごく明快で基本的な姿勢を持てない人が欧米以外の為政者に多いのはなぜかといつも不思議に思います。「あってはならないこと」が有れば、その原因を究明し、無くそうとすべきなのに、「あってはならないから、なかったことにしておこう」という発想が、政治家、公務員でも、企業人でも繰り返しでてくるのは「臭いものには蓋」という文化のせいなのか、責任を問われるのを避ける人々の保身のせいなのかわ分かりませんが、何十年も放置されてきた年金情報の不備の問題にせよ、貧困統計の無いことにせよ、本当に根本的に姿勢を直さないと、どうにもなら無いほど状態がひどくなって始めて現実に直面しなければならない一般市民はたまったものではありません。しかし、こういうまずいことはまず隠そうという姿勢どうしたら変えられるんだろう。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 「ないことになっている(ので、ない)」とか、「あってはならないことだ」は、役所的な言葉ですよね。

 理由はいろいろあるのでしょうが、私は以下のようなことを考えています。つまり、責任の取り方というものが、非常に極端なのではないか、ということです。具体的には、大袈裟に言うと、責任を取るということは100%取ることしかないため、そんなことは事実上無理なので、責任を取らないことに結果しやすい。それは100%責任を取らないということになってしまいやすいのではないかと。all or nothingの問いのたて方になっていることが、こういう事態を許してしまうのではないでしょうか。

 何らかの役所が関与するような問題が起こった場合にも、追及の仕方として「責任を取るのか、取らないのか」とマスコミなり市民が問う場面を多く見聞きするように思います。これを、「どのくらい(割合など)責任を取るのか」とは言わないと思います。

 『2020年の日本人』の著者松谷明彦さんが本書で述べておられたと記憶しますが、公的機関は非常にパターナリズム的だとか。市民は逆に保護されて当然という意識でいろいろと要求してしまうし、それを全部受け入れるか全部拒否するかしかないような気になってしまう。そのような気が私はするのですが、いかがでしょうか。

 都合の悪いことを隠そうとするのは、それを明らかにすると、市民から100%責任を取るような、ありえない要求をされてしまうために、明るみに出しにくくなってしまいます。一方で、市民は常に相手(役所など)に100%責任を取ってもらおうとするために、部分的な解決なり責任の取り方を許さない態度を当たり前としてしまう。

 まずいことを発見した組織内において、それを公表した場合にも、部分的な責任はとるが、責任の範囲がもっと限定的だとされているのであれば、「ここまでは責任を認めるが、ここからは責任の範囲ではなかった」と主張してもいいのではないかと思うんです。

 両者がそういう交渉の余地を許さないと、話合いにはならないし、不信感ばかりを煽りたてることになってしまうような気がします。

 市民としてできることがあるとすれば、今後の政策に対してならば、「根拠を示せ」と言い続けることくらいしか思いつきません。また、きちんとした調査データに基づいて立案せよ、ということも重要ではないでしょうか。

 もっとも、「根拠はなんですか?」との素朴な疑問をもつだけで、危険視されるような場合もあるとすれば、直接対立を避けるような心性があるということでしょうし、それは、「意見の対立や否定をそのまま相手の存在の否定と受け取る」発想から来るものでしょうから、子どもの頃から多様な意見があって当然と思える環境に育ちつつ、意見対立と存在否定は同義ではないと肌身で感じられるような人間関係を経験させることかもしれませんねぇ。

 うーん、わかりません。

 ひとまず、個人としては、今シーズンには長ネギを食べて心身が弱らないように気をつけることも、長期的には、「姿勢を正す」ことにつながるように思いますが。

 現実の直視は厳しいものですから、元気であることが前提条件なのではないでしょうか。エネルギーがあることも。

えふさん
  今日の議論は面白いですが、具体的には100%責任を取るのと部分的に責任を取るのとのが具体的にどう違うのか分かりにくいです。
  わが国の役所では2年ごとくらいに担当責任者が変わり、問題がすぐ露呈しないと直接の責任の所在が明確ではありません。また問題があっても、個人的なこと(例えば汚職)でなく、組織の仕事上の問題であれば「連帯責任」が慣行で、一連の人たちが訓告処分と数ヶ月の部分的賃金化カットとなったりします(解雇はまずありません)。こういう状態で100%の責任とは何を意味するか不明ですし、それが30%の責任になればどう変わるのかもよくわかりません。
  米国の場合は連帯責任は無く、あくまで個人責任を明らかにして証拠が明確であれば、損害をこうむったとされる人々や組織から(雇い主を含め)問題を起こしたり、知っていて責任ある立場なのに放置した人は、解雇されるし、おまけに民事訴訟で訴えられます。白黒つけるのが好きな国柄といえます。民事は損害賠償なので、その程度も計ることになるし、無責任のツケも大変だと思いますよ。もっとも大統領ほどに偉くなるとイラク戦争が大きな誤りであっても、後世で批判される程度となり、直接の責任を取ることが無く(選んだり、支持した国民にも責任があるので)、この点いい加減ですが。、
  最後の「『意見の対立や否定をそのまま相手の存在の否定と受け取る』発想から来るものでしょうから」は、面白い点で日本の方がそういう発想は多いですね。アメリカ人でも個人差はありますが、論争慣れしているので、批判はあまり拡大解釈しませんし、感情的になることも少ないようです。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 ご指摘のとおり、100%の責任などと言っても具体的にどういう意味かはわかりませんね。

 ちょっと言い方を変えます。日本では、責任をとるということに対して、過大評価しているような気がします。理由は適切な責任の取り方について経験値が低いため、リスクを実際よりもずっと大きく見積もってしまいがちなのではないでしょうか。適正評価でもあり、責任をとって辞めると復活できる可能性が極めて低いと考えるのは、現実的だとも思います(年齢差別など)。

 官僚制システムにおいては、個々が責任をとらないような構造になっていることはわかります。誰に決定権があるのかもよくわからないくらいです。「前任者が異動したのでわからない」が理由として通用することも不思議なことです。公務員が解雇されることがまずないということは、昔ながらの村落での暮らしと同様に、そこに居続けなくてはならないために、不満や対立点を明確にしないでぼかすことで共存していくようなのと似ているような気がします。「人とうまくやれない人(協調性なし)」と見なされると異動先も見つかりにくいような世界では、何もしないほうがもっとも得策な気がするからです。

 と、ここまで書いてくると、山口さんが主張なさっている、減点主義の話を思い出しました。

 いかに自分に責任が降ってこないかに留意しつつ、責任を分散していく手法っていろいろあるような気がします。最初に観察したときは、なるほど、と感心したのですが、新鮮味を感じなくなってきたということは、私も責任感が薄れているのかもしれません。危険です。

 ABB(anybody but Bush)とまで言われた方が任期を全うするとは皮肉なものですが、大統領が責任をあまり問われないのは、国民が選んだ責任があるのもそうでしょうけど、大統領の権力が絶大だから、でもあるのではないでしょうか。

 日本では、少し前までは代議士は秘書のせいにして、秘書が自殺したりして責任をとるみたいなのがありましたが、これも、力関係の上の者が下の者に責任を押し付けたのではないかと私は感じます。

 地位が低い者に責任を押し付けることで、その問題を解決したことにすることが、少なくないような気がするのです。少し文脈がずれますが、派遣切りとか。前回の不況の際に、就職氷河期を作ったのも、若者への責任の押し付けだったのではないかという気がします。

 日本においては、責任は地位の低い者がとること、となっているのかもしれません。

 責任をとると損をする、のではなく、得をするようなことがあれば、多くの人は責任をとるようになるかもしれません。「この人は○○の責任をとって会社を辞めました」との証明を履歴書に添付すると、転職に有利になるとか。

 結婚市場でも、責任をとって辞める男性、が高く評価されるとすれば、責任をとることが流行るかもしれません。が、現実は、責任感を演出できるが、実際には責任を回避して会社に居続けられる男性、がもてるはずです。なぜなら、解雇されやすさは一家が路頭に迷うリスクを高め、そんな人の経済力に寄りかかって生きるのを決断するのは、愚かなことだと多くの女性は判断すると思うからです。

 
 現実的ではありませんが、たとえば、責任をとったことが証明されれば税金が安くなるなどの具体的な特典があれば、それで、責任をとったことで失う何かよりも特典のほうが大きければ、責任をとりたい人が増えるのではないかと思いますが。

 なんだか、論点がずれまくりですね。すみません。

えふさん
   具体的な責任について、責任を取るほうが得をするというのは、責任が何らかの損害に関することであれば、難しいと思うのですが。一般的な意味で、責任感の強い人が得をすると言う社会ができれば責任感の強い人が増える、と言うのは進化ゲーム理論の考えです。正直な人が社会で多くなるについても進化ゲーム理論は同様に考えます。重要なポジションへの登用に有能さだけでなく責任感の強さをより重視するようになれば、責任感の強いことが社会的チャンスを増やすので、責任感の強い人が増えると思います。
山口一男

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