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2009年1月 4日 (日)

なにゆえ、羽生さんと?

 久々の勝間さん情報です。

 2009年1月3日付産経新聞に将棋の羽生善治さんとの対談です。タイトルは、「【新春対談】羽生善治棋聖×経済評論家・勝間和代さん 意識的にアクセル踏もう“成長の糧”」(ここ)です。

 ネット上で読めるわけですが、紙面の方がすごく大きな写真になっていますし、ネット上ではいつリンクが切れるかわかりませんので、念のために、紙面も載せておきます。見開き2頁にわたっており、かつ、大きな記事なので、4つの分割せざるを得ませんでした。だから、読みにくいです。

対談1 

対談2

対談3

対談4

 羽生さんが「家事は全くしない」(趣旨)とおっしゃったことに衝撃を受けました。じゃあ、誰かハウスキーパーを雇っておられるのでしょうか。

 それと、なにゆえ、このお二人が対談をなさったのか、ということが気になりました。

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勝間和代さん」カテゴリの記事

コメント

えふさん
  少し前のデータですが、僕の分析では既婚者では家事の95%ぐらい、育児の85%ぐらいを妻がしていました。羽生さんが有配偶者なら奥様が100%家事をしているということだと思います。
  この2人の対談、いかにも産経新聞の考えそうな組み合わせです。まあどなたが相手でも、勝間さんは持論を述べるだけていしょうが、確かに対談の意味は同世代と言う以外全くなさそうです。羽生さんは社会の改革など全く念頭に無いだろうし。もっとも、東京都の教育に関与された将棋のプロのように振舞うぐらいなら、何もしないほうがはるかにましですが。

山口一男さん

 ありがとうございます。
 なるほど、妻でしたか。でも、そのデータだと、「妻≒ハウスキーパー」ですね。でも、ハウスキーパーなら有償ですが、妻だと無償だという点が相違点ではありますが。

 羽生さんは有配偶者だったかと思います。

 「将棋のプロ」の方のように邁進なさるくらいなら、何もしないほうがよい、それはそうですね。羽生さんのお話で、歩兵では王をとれないルールがあるのは日本的、というのが、ふ~ん、なるほど、と思いました。その分析はおもしろいなと思ったのでした。
 産経新聞、対談の組み合わせのアイデアにおいて、極めてユニークだと思いました。

えふさん
  いえいえ、「妻=ハウスキーパー」なら伝統的男女の分業で、まあそれはそれで夫婦の選択の問題でもある(離職後の女性の社会的機会が少ないという社会のせいでもある)のですが、僕の数字は専業主婦でない共働きの夫婦を含んだ数字で、専業主婦と有業既婚女性との間に分業状態に大差はなく、後者の場合、「妻」=「職業人」+「ハウスキーパー」となり、子供がいればさらに「妻」=「職業人」+「ハウスキーパー」+「デイケアワーカー」となります。
   「無償」はUNPAIDという意味ではそうですが、家事はともかく育児の場合、心理的報酬があり(第1子の場合、未経験で夫のサポートも少なくストレスのほうが大きいという経験をする女性が多いのが問題なのですが)男性はその心理的報酬を得る機会を奪われている(企業が伝統的男女の分業を押しつけるので)という面もあります。

えふさん
  追加です。将棋にはチェスにないもう一つの大きな特徴があります。取った敵の駒を、相手を攻めるために使えるのです。チェスではそれはできません。まさか捕虜になれば敵に寝返る思って、「虜囚の辱めを受けず自決せよ」との戦陣訓を作ったわけでもないのでしょうが、闘い敗れて敵に降伏する者への極度の不信感は日本特有のものでした(西洋では敗れた場合降伏は当然の行為でした)。将棋と関係が有るかどうか分かりませんが。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 なるほど、有業既婚女性って、すごく大変なのですねぇ。その場合、子育てから得られる心理的報酬のほかには、「妻」にはどういういいことがあるのでしょうか?あんまりなさそう、な気がして、今日、あれこれと考えていたのですけど、思いつきませんでした。

 いいことがあるかどうか、みたいな観点で考えること自体が間違いなのでしょうか。

えふ
   いえとんでもない。「いいことがあるかどうか」の観点で見て人が行動しているとむしろ考えねばならないと思います。結婚に「いいことがある」との期待ができなくなったから、晩婚化・非婚化が進み、子供を育てることに「いいことがある」との期待ができなくなったから、少子化が進んでいます。ですから、晩婚化・非婚化や少子化に歯止めをかけるには、結婚や育児に「いいことがある」との期待感を持てる社会に日本が変わらねばなりません。でも有業有配偶女性が「職業人」+「ハウスキーパー」+「デイケアワーカー」の3役を感謝されることもなく、引き受けるのが当然とされる社会では、女性は結婚にも育児にも期待感はもてないと思います。「好きな相手と一緒に暮らせる」というベネフィットだけでは割に合わないと考える人も多いでしょう。でもこういう社会が持続できるとは思いません、変わって行かざるを得ないと思うし、今は過渡期だと思います。

すみません。書き始めが「えふさん」でなく、「えふ」のまま止まっていました。お許しください。

山口一男さん

 ありがとうございます。
 そうですね、「いいことがあるかどうか」の観点は重要ですね。
 ただ、期待感が薄れたということが本当に言えるのか少し疑問もあります。よく引用されるのが、「いずれは結婚したいと考えている人が大多数だ」というフレーズです。希望と現実が不一致なのですが、たとえば、早く結婚して早く子どもを設けるとキャリアを形成する前に中断することになり、かつ、それは同時に永遠の放棄に直接つながるような、そういう感じが晩婚化かついつかは結婚したい願望の継続を招いているような、そういう感じがするのですが。

 結婚だけなら、生きているあいだのいつでも可能なわけですが、日本の場合子どもと結婚がくっついていることと、早期に子どもを持つことが不利になりやすいことに対策をとらないと、もちたいと思ったときには時間切れになりやすいような気がします。まぁ、子どもがいない人生もそれはそれでよいとは思うのですけども。そうは思えないと(気持ちだけの問題でもないのでしょうから)とても苦しいでしょうねぇ。

あ、「えふ」のままでもまったく問題ありませんよ(笑)。ただ、見た目がちょっとおもしろいですが。「えふ」の文字の並びの力の抜けた感じがけっこう気に入っているので、くすっと笑えました(笑)。

 将棋とチェスのいったん取った駒の扱いについては、たしかにそうですね。ほとんどチェスで遊んでいた私としては、歩兵に相当する駒が相手側の陣地に入れば、クイーンと同じ動きができること、それでキングを追い詰めることができるところが印象的なのですが、将棋ではそれができないということは今回初めて知って新鮮でした。

 別の駒を再度使えるのは、おもしろいですね。歴史的にはどうか知りませんが、言われてみれば、「捕虜になるな。死ね」との教えは、極度の不信感のあらわれかもしれません。う~ん、セルフ・エスティームが低いですねぇ。まぁ、今日の味方が明日は敵で、その逆も何度もあった日本の歴史においては、当然といえば当然でしょうか。

 相手にだけ忠誠をもとめる名残があるような気がするのも、その影響でしょうか?(笑)。サムライ・ジャパン。

えふさん
  いくつか返答をいただきましたが最初の点は重要ですね。一般的に「いずれ結婚したい」というのと現実に結婚することのずれは、結婚と言うのは相手があって始めて具体的な意味を持ち、相手が定まらないときに「結婚したいか」どうかと言うことと具体的相手に対し「結婚したい」と思うかどうかとは弱い関係にあると思います。対照的に結婚後の出産については、「子供を産みたい」という出産意欲と実際の出産とは強く結びついています。前に戻って、一般的に「いずれ結婚したい」というのは、良い機会があれば(良い相手が見つかれば)という条件が当然あって、相手が誰でも良いというのでは全く無く、ですから晩婚化が起こるのは、お互いに良い条件だと思えるような未婚男女の結びつきが難しくなっていることが一因だと思います。見合い結婚や、職場結婚など、制度化された結婚が少なくなったこととも関係していると思いますが、わが国の職場環境では結婚後のWLBが困難なため、女性が職場を辞めざるを得ないことの機会コストが大きくなっている一方、夫が十分妻を家事育児でサポートするだろうという期待を「妻候補」が持てない状況にあることも要因だと思います。

山口一男さん

 ありがとうございます。
 「良い条件(相手)があれば」と思うのは当然だと思うのですが、これも相手単独の条件だけを考慮すればよいわけではなく、その相手をとりまく諸条件(職場の環境、継続の可能性、子育てサポートの有無など)も同時に考慮することになり、以前と比較して、同じ性別集団内でも多様性があるため(諸条件が整いやすい人と、全くない人との差が結構ある)、相手方性別集団にもとめる諸条件も複雑化してしまっているような気もします。

 その上に、「性格があう」とか「趣味が共有できる」とかの個人にもとめる条件も変わらないままあるとすると、カップリングは非常に困難ですね。

 個人に属する希望を変えることを強制はできないとすると、やはり、社会的に規定されやすい諸条件を整備することしかないような気がします。

 が、そこまで、「好きな人と一緒に暮らす」ということの意味ってなんだろうという気もしないでもないけど。そういうことを考えるとおそらくダメですね(笑)。

えふさん
  「相手を取り巻く諸条件」ですが、家事も育児も夫婦で同等にし、女性の収入も賛成に劣らないなら、それらの条件を軽く見て、「性格が合う」とかより2者関係のことで決定できると思うのですが、伝統的男女の分業が支配的だったり、働いても女性の収入が男性よりずっと少ないので、そういう諸条件が重くなっていると思います。
  そういう意味では社会的条件を変える必要があります。どうしてそこまで考えるのかというと、やはり男女の機会の均等は大切だし、それに晩婚化・非婚化とともに少子化がさらに進んで、子供がいなくお年よりばかりになれが社会に活気が無くなるし、いずれ過激な人口減少が起こるので社会に様々な問題が表れます。そのころ僕は死んでるだろうけど、えふさんはそれを見届けることになるかも知れません(出生率がこのまま回復しないならばですが)。

山口一男さん

 ありがとうございます。
 現在の状況で、2者関係のみで考えることはおそらく現実的ではない、と思います。が、「気持ちが一番」は排除されにくい観念なのでしょう。むずかしいですね。

 50年ほど先までは人口減は避けられないと思うのです。急激度をどれだけ緩和させられるかが、きっと問題にされているのだと思うのですが。

 私はともかく、私の世代の人はそれを経験することになるでしょうねぇ。

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