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2009年2月13日 (金)

間違いを認めることは、むずかしいですか?

 小泉構造改革路線を牽引なさった方が、規制緩和や市場開放は間違っていたとお認めになったそうです。

 一部では「転向」として話題になっているそうです。その内容については、私にはよくわからないのですけども、間違いだと気がついた時点でそれを認めることをきちんとなさる方は、特に大人になってしまうと少なくなってしまうような気がするので、そこの部分だけに限定しても、少し感心しました。

 間違いに気がつかない場合も多いのかもしれませんが、仮に気がついても、2通りの対応があるようです。1つは、このように誤りを認めて言動に移される方。もう1つは、誤りに自分では気がついても、公式にはお認めにならない方。後者のなかには、その前提のまま、さらなる言動を取り続けられるアッパレな方もおられます。

 以前から不思議だったのですが、少し前に、「面子」というヤツが悪さをしているらしいということに気がつきました。メンツ、やっかいですね。特に、権力者に寄生しているヤツは面倒です。なんとか、駆除の方策を考えたいものです。

 2009年2月11日付読売新聞の記事です(ここ)。

 日本が貧困率で世界2位であることなどにも言及されています。

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コメント

えふさん
  中谷さんが自説の誤りを認めたことは立派だと思います。でも根本問題は、実際にこうすればこうなるという実証的根拠もなく、形式理論だけで新自由主義を信奉し押す進めてきた経済学者とそれを支持する政治家たちにあったと思います。これを是正するのにまた、机上の理論だけで、推し進めないことぉ切に願うし、訴えて生きたいと思います。根本は人間や企業の行動をきちんと実証的に理解したうえで対策を練ることだと思います。

えふさん
   あ、この記事の引用文献(読売新聞記事)の情報のお礼を言うのを忘れていました。ありがとう。
   学者の中には、本気で世の中理屈(理論)どおり世の中が動くと強く信じている人がいます。そしてそれと矛盾する事実が山ほど出てきて、もう引き返すことができないほどになって、ようやく、おかしいと思いだす。少しおかしいと思ったときよく調べて軌道修正を考えれば問題は軽くすんだはずだし、引き返すこともできたのに。これは「面子」というより、傲慢さではないかと思います。
  人についても似たようなことがいえるかもしれません。自分で「殻」を作っていて、その殻と矛盾する情報は受けつけない傲慢な人は、事実がその非を伝えていても自分が正しいと思い続ける傾向があると思います。怖いのはそういう人やその支持者が政策の意思決定者になったときですね。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 おっしゃるように、政策決定に実証的な根拠がない(なかった)ことが最も問題かもしれません。言いだす人もですが、支持する人も問題ですね。向きが変わっても、同様に、根拠のない思いつきを実行していくとすれば、また同じ過ちを繰り返すことになるかと思います、逆向きに。

 自分の考えと違う現象や事実が出てきたときに、どのように受け止めるかが大切なのですね。無視したままでいられる人も多そうです。「少しおかしい」と気が付ける感覚が鈍くなっているのかもしれません。また、忙しさを言い訳に、その感覚の訴えているものを後回しにしてしまうこともありかもしれません。面倒なことを、つい後にしてしまおうとするのは、広く共有されている性質のような気がして、反省します。

 決めつけや「殻」から自由でありたいけれど、知らないうちに身に付けてしまっている観念とか自分の思考の癖みたいなものに、なかなか気づくのはむずかしいような気がします。メタ認知を高めるような努力をするべきでしょうが。
 簡単なのは、ひとの話に傾聴することのような気がしますが、「聴く」こともそんなに簡単でもないようです。コミュニケーションの基本なのですが。

 「傲慢さ」と距離をとりつついるためにも、「聴く」姿勢は重要なのですね。

 他者の意見は聴きつつも、自分の意見とのバランスをとるような、○○バランスも必要な気がしました。○には何を入れればいいのか、ちょっと思いつきませんが。

えふさん
  「メタ認知」。うーんこういう言葉は始めて聞いたのですが、確かにそうですね。でも、それが現実に生かされないのは、できてしまった殻自体がメタ認知を妨げているからだと思います。例えば教育学、教育をいかに良く行うかについての学問で、メタ認知についてそれなりの成果はある思うのですが、教育現場で教育学の成果を取り入れているのは特殊な実験校ぐらいです。なぜかというと現場の教師たちが、日々の既存の教育現場への適応に終われ、教育そのもののあり方を考え直すことは少ないからです。もはや時代に適応しないのに、男女の伝統的分業や長期雇用・長時間就業を前提とする日本の雇用慣行が継続する問題も似た面があると感じます。社会科学(特に経済学)理論家の現実を離れた理論重視も、学問の世界での主流に適応することに心がけ、自分の目と耳で判断することを忘れてしまう癖がつくことに原因があるように思えます。
  「聴く姿勢の重要さ」は『ダイバーシティー』の第2話でも強調しましたが、それが基本だと僕も思います。あとは「観察から学ぶ」姿勢でしょうか。まあ、自分の眼と耳を働かせ、情報を頭と心に伝えよよということです。
  「バランス」の丸の部分ですが、えふさんの意味することとはずれるけれど、「情報の受信と発信のバランス」というのが似てるかも知れません。自分の意見が正しいと決め込んでいるひとは、情報の受信能力がありません、「空気にあわせる」ことだけに長けている人は、情報の発信能力がありません。

山口一男さん

 ありがとうございます。

 そうなんですよね。日々の義務に追われていると、自分を振り返るとかひとの話をじっくり聴くとか、なかなかできなくなってしまうように思います。それと、学問に限らず、業績をあげようとすると、既存の知識の枠組みを受け入れなければ適応がむずかしいと思われるので、「成功者」はどうしても既存の枠組みにとらわれやすくなるような気もします。それを乗り越えて、独自性を確保するのは、現状では相当高度な技術と努力を要するように思いますねぇ。

 情報の受信発信バランス、ですか。おっしゃるとおりですね。どちらかだけでは、周囲の人などとうまくいかないでしょうし、自分もつまらないような気がします。

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