想像力と記憶。
『奪われた記憶―記憶と忘却への旅』(ジョナサン コット (著), Jonathan Cott (原著), 鈴木 晶 (翻訳))
うまく理解できているかは、やや心もとないのですが、「理解」には「想像力」が必要で、「愛」にも「想像力」が必要だ、とおっしゃっているような気がします。
本書を執筆している間に発見した最も興味深いことのひとつは、ラテン語のメモリア(memoria)が記憶と想像力の両方を意味するということだ。フランセス・イェイツが『記憶術』の中で思い出させてくれるように、ルネサンスの錬金術師ジョルダーノ・ブルーノにとって、「理解という内的世界全体におよぶ力と能力はひとつしかない。それはすなわち想像力、想像する能力である。それは、記憶の門をすぐに通り過ぎ、記憶と合体する」。また、イェイツはこうも述べている。「記憶の中のイメージの操作は、たいていある程度は精神全体が関係しているに違いない」。
記憶と想像力と魂の相関関係を探究するために、私はトマス・ムーアに助言を求めた。彼は、『失われた心 生かされる心ーあなた自身の再発見』、『ソウルメイト、愛と親しさの鍵』(菅靖彦訳、平凡社)、『日常生活の新たな魅力』などのベストセラーの著者である。これらの作品は何よりも、私たちが普通の日常生活において、魂のケアをするにあたっては、想像や想像力の重要さを尊重すべきだと提唱している。「愛して」いるということは「想像力を使って」いることだ、と彼は提言する。これは、私たちは何者なのか、魂とは何なのか、を私たちに考えさせ、明らかにするという。ムーアは若い頃に十二年間、カトリック修道会で修道士として過ごした。現在は心理療法士として開業し、教壇にも立っている。(173-174頁)
――ラテン語のメモリアは記憶と想像力の両方を意味しました。記憶と想像力の関係についてはどうお考えでしょうか?
M 想像力とは何か、という質問ですね。創意工夫、独創性、新しいアイデアを思いつくことといった、現代的な想像力の概念は、完全にはその本質をついていません。想像力とは、世界に意味をあたえ人生に文脈をあたえてくれるようなイメージを楽しむことができるということであり、その中で生きることができるような想像力を創造することです。それができれば、世界をたんなる事実とは見なさなくなります。そのためには想像力の生涯教育が必要です。私は二、三年ごとに、スー族の医術師ブラック・エルクの著作(ナイハルト『ブラック・エルクは語る』宮下嶺夫・阿部珠理監修、めるくまーる)を読み返すのですが、最近また読み返してみました。彼は、人びとが神聖な環境で生活するための方法を繰り返し提言しています。いったん神聖でない方法で何かを始めてしまうと、全体が崩壊してしまいます。想像力にも同じことがいえると思います。経験の中で魂を大切にし、養うには、宗教が必要です。なぜなら、魂は自分よりも大きいものだからです。それは心理学にはできません。けれども、宗教はいわばひとつの想像法です。想像力のメイン・エンジンみたいなものです。宗教は、想像力を支え、養う手段です。想像力のおかげで、私たちは何をするにしても、自分のしていることの文脈が理解でき、自分がいくつのもレベルで行動していることがわかります。そして、想像力にはある種の記憶力が必要です。そもそも宗教とは記憶術であり、宗教のおかげで、自分が生きているより大きな文脈を心に留めていくことができるのです。宗教がなくなったら、人生はしだいに俗化します。それが今私たちの社会に起こっていることです。非宗教的な社会には魂がなく、そういう社会が長く存続できるとは思えません。(180-181頁)
後半の宗教に関する部分はよくわからないのですけども、前半の「想像力の生涯教育が必要」だというところが印象的でした。具体的には、どのようにすればいいのかがよくわかりませんが。
それから、「想像力」があれば、日々を楽しく生きられるとおっしゃっているような気がしました。単純すぎる解釈かもしれませんけど。それにしても、想像力ってかなり重要なものなんですね。
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