オバサンとオトナの女、のあいだ。
『オバサン論―オバの復権をめざして』(大塚 ひかり著、2006年刊)
著者によれば、オバサンは醜いそうだ。きれいなお姉さん、きれいなおばあさんはいても、きれいなオバサンはほとんどいないらしい。その理由を、「第二の思春期」だからだという。思春期とは醜いものなのだそうだ。
ま、そんなふうに、オバサンを悪しざまに罵る意図かと思いきや、サブタイトルにもあるように、オバサンは本当に醜いのか、世間で言われているほど蔑視されなくてはならないのかと疑問をもつのです。そして、「はじめに」において、「オバサンでいいじゃん、なんか文句ある?」とのスタンスを表明し、オバサンを復権すると宣言なさっているのです。さらに、冒頭で女性誌などにおいて、オバサンと言いうる年代の女性に対し、オバサンにならずにオトナの女になろうとの特集を組むが、オトナの女もオバサンのサブカテゴリーだと言い切っておられます。元気が出ますね(笑)。
何より、著者は本書を書く時点では、すでにオバサンとして自覚を持ち、オバサンで何が悪いと言えるようになっておられますが、その数年前までは、オバサンにはなりたくないと思っておられた方なのでした。そこのところがおもしろいし、渦中にありながら自己肯定するというスタンスに好感がもてると思うのです。
目次に行くまでの間に、著者のスタンスと本書の目的は把握できるわけですが、具体的には、何をすることでオバサンを復権しようとするのかまでは明らかになっていません。そこが気になるところです。私なんか、別にオトナの女とか言わなくても、オバサンでいいじゃん、と言われれば、結構それだけで、「そうだよね~」と賛同できてしまうので、テーマよりも方法論に関心があるわけです。
しかし、本書では、著者自身が少し前までオバサンを否定する代表みたいな論者だった(らしい)こともあり、力が入っています。3部まである構成で第1部は「オバサンとは何か」というところから論じなければ気が済まないのだと思います。第1部に含まれる4章のうち、「1 嫌われ者、その名はオバサン」に「オバサンのイメージは今、史上最悪?」などといった節があり、世間でのオバサンイメージの悪さが紹介されます。おばあさんのイメージが「優しい」「知恵袋」「かわいい」などとよいのに比較して、オバサンは「図々しい」「羞恥心がない」「厚かましい」「うるさい」「自己中心的」などマイナスイメージで占められているのです。
その後、なぜか社会学者の宮台真司さんが46歳で20歳も年下の女性とご結婚なさったという週刊誌の記事を読み、周囲の男性たちの反応を見て、著者は寝込んでしまったのでした。ショックの理由は、その40過ぎても50過ぎても、「平気で、若い女は良い!」と言える態度らしいです。まぁ、思っていても言わなくてもいいのではないか、という気はしますが、あらためてショックで熱を出すほどには新鮮な驚きは私にはありませんけどね。
宮台さんには何の恨みのないそうですが、そういった現代の事象の分析をしても仕方がないと思われたのか、著者はもともと歴史を見るのがお好きな方のようなので、これ以降、「『オバサン』の誕生」として、いつ頃から「オバサン」というものが発生してどういった意味づけをされてきたのかを見ていくことになります。
著者によれば、「オバサン」が誕生したのは江戸後期だそうです。これは、「オバサン」という言い方のことで、そのときには「他家の中年女」という意味だったのだそうです。その頃はマイナスイメージはなかったようですし、その後『源氏物語』の登場人物にオバサンに相当する人たちを見つけ、いかにその女性たちが素敵で男性からももてていたかなどを解説していかれるのです。
第2部では「オバサンはこんなにすてき」として、マイナスイメージとして捉えられがちな特徴にひとつひとつ反論しておられるのですが、ちょっと気にいったところがあるので、抜粋しておきます。
女のオバサンは自然&正常な発達
たとえば「イ 図々しい・厚かましい・羞恥心がない」ということで思い出すのは、早稲田大学で中古文学を教える中野幸一先生の話である。中野先生は言っていた。
「学生はおとなしすぎる。質問しても院生ですらシーンとしている。それに比べてカルチャーセンターや講演会に来るオバサンは偉い。積極的に手を挙げるし、『源氏物語』なども案外ちゃんと読んでいて、質問なども時にこちらがへーっと感心するようなことを聞いてくる」と。
中野先生は、学生もこうしたオバサンの積極性を見習うべきだとおっしゃっていた。同感だ。
しかし、その積極性はオバサンになったからこそ発揮できるものなのだとも私は思う。そのオバサンが女学生のころ、同じようにはきはき質問できたかというと、そうではないと思うのだ。やはり今の学生のようにもじもじ周りを気にして、押し黙っていたと思う。
年をとって、他人はヒトのことなどそんなに見てもいないし気にしないということに気付き、自意識過剰が洗い流されたのと、人生なんてはかないものだ、今質問したいことをしなくては損だ、金銭的にもせっかく払った受講料をムダにしたくない、人生の元を取りたいという気持ちがオバサンになると強まるというのもあろう。
若い頃というのは、なんだか人生が無限に続くような気がしてぞっとするのだ。こんな空しい、白けた人生が延々と続くなら、いっそ死んだほうが……とむやみに死を思ったりさえもする。
が、オバサンは、死はいずれ、ほおっておいても天によって与えられると(たぶん)知っている。オジサンは時に自殺に走るが、女の自殺率は男の三分の一。オバサンは人生哲学なんてなーんにもないかに見えて、哲学的思考をせずともカラダで人生を悟ってしまったようなところがある。年を重ねて図々しくなるのは、「女の進化のたまもの」「であって、生き物として「自然な発達」、というか「正常な発達」なのである。
あと、オバサンの知識欲というのはちょっと他には見られないというか、たとえばオジサンは暇もないというのもあるのだろうが、仕事がらみ以外の勉強をする人は少ない。が、オバサンはただ「知りたい」という純粋や知識欲で、図書館に行ったりカルチャーセンターに足を運んだりする。オバサンは「知の快楽」を知っているのだ。
「ロ 外見が醜い・カラダに贅肉がついている」というのはいいことなんてないようにも思うが、「醜い」はともかく「カラダに贅肉がついている」というのは実はいいことなんだ!と子供が小さい頃、知った。うちの子は、母(当時、六十代前半)が寝かしつけると、ぷよぷよの胸と腹が気持ちいいらしくて、すぐ寝入ったものである。今じゃ私もずいぶん肉付きがよくなってきたが、三十代前半当時は、「ママの抱っこは骨が当たって痛い」と言われたものだ。オバサンの贅肉はこんなところで役立っていたのである。
「ハ 生活臭が漂う」って、生活してるんだから、仕方ない。
「ニ おしゃべり」は、あとで述べるように、オバサンの非常に大きな特徴で、かつ、日本文学に大きく貢献した要素でもある。文学だけではない。歴史の真実を暴いたのも、実はオバサンならではのおしゃべりだった(「7 オバの問わず語りが文学と歴史を作った」参照)。
「ホ 知りたがりや・おせっかい」も同様。オバサンのこの要素は、他人への想像力を欠くと非常に迷惑なものになるのも確かで、「女は早く結婚したほうがカラダにいいのよ」「子供を生んだほうが長生きできる」「二人目はまだなの?」などなど、「余計なおせっかい」と言われる発言をしがちなのもオバサンだ。が、親に虐待される子供の命が助かるのも、「おせっかい」と思われるオバサンの通報があったればこそだろう。
「ヘ 品がない」というのは、うーん、品って人によって見方が違うからなぁ。
「ト 理屈抜き・一見、論理的に見えてそうじゃない」というオバサンの特性は、「ただただ可哀想だから」とかいう理由で、動物愛護したり、あまり利益にならない市民運動や、もっと身近でいうとPTA活動に身を投じたりするオバサンの存在につながると思う。年とってますます欲深になるオバサンも多いとは思うが、その一方で、この、「利他主義」というか、「ボランティア精神」というのも、案外、オバサンの大きな特徴で、それは往々にして、道徳的に正しいとかいう思いからではなく、
「自分たちの住んでいる地域だもの、住みやすくしましょうよ!」とか、
「道で会っても知らんぷりなんて寂しいし味気ないわよ!」
といった、同胞意識の強さ&コミュニケーション優先の思いから出たものであったりする。
オバサンは年とともに本能を研ぎ澄ませているので、「せめて自分の住んでいる場所だけでも心地よくしたい」という欲望が強い。「自分の住んでいる場所」観の狭いオバサンは「自分さえよければ」のヒトになったりもするが、
「自分の住んでいる場所=地球」
「同胞=地球人」
とグローバルに考えるオバサンなんかは、黒柳徹子や緒方貞子のようになる。(P.103-106)
長くなりましたが、最後のところが特におもしろいと思います。気に入りました。
第3部では「こんなオバサンになりたい」と非常にポジティブです。ここで、コミック『きょうの猫村さん』が出てきます。猫村さんについては、かなり以前に私も少し書きましたが(ここ)、猫村さんは猫の身で人間の一家で家政婦として働いているのですけども、この猫村さんも著者はオバサンだと言います。猫村さんが人気があるのも、それは猫村さんのオバサン性だからなのだと。
歴史をひもとき、昔はオバサンも男性の性愛の対象だったとか、そういう調子で終わるかと思っていたら、そうでもありませんでした。別に、男性から性的対象と見なされることだけを自己肯定の柱に据えなくてもいいと思うんですが、著者も最後の辺りではそんなことを言っておられます。
巻末には「オバサンに近づくためのブックガイド」まで付けて『蜻蛉日記』『伊勢集』などを薦めておられます。
ご本人もおっしゃるように、ここまでオバサンのことばかり真剣に考えた本はこれまでになかったかもしれません。それも、肯定的に。
少し気になるのは、オバサンに対して非常にマイナスイメージを抱えている人が、本書を読了した場合、どのくらいそのイメージをプラスに転換できるのかということですね。特に、自分はまだまだ若いと思っている女性にとって、自己肯定のツールになりうるのか、そこのところが気になります。が、このことは、本書を読んでもわかりませんし、それはテーマでもないですけどね。
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えふさん
僕はもうここ30年以上もアメリカに住み、日本へは多くで2・3ヶ月程度の「一時帰国」をするせいでしょうか、この手のたぐいの話はすごく日本的だと思います。アメリカで年齢差別が禁止されていることはご存知だと思いますが、年齢意識そのものが、老化に伴う体力の衰えは別として、非常に希薄に思います。「オバサン」に相当する言葉もありません。「オヤジ」も同じくです。日本では伝統的には「歳相応」に振舞うべしという規範が強く、例えば「暴走族」なんかある年齢が来ると「卒業」しますが、米国では年齢の規範制限はなく、ライダーも特定の世代の文化で、現在も黒シャツ着てライダーやっているのは50歳代あたりが多いように思います。若いころ「暴走」した人が今もしているのです。一方日本では「年齢にふさわしい行動」がある分、逆に年齢に伴ったステレオタイプも生まれ、それがイメージを作りひいては偏見にもなるのだと思います。ただ「オバサン」の場合、石原都知事の「ババア」発言にあったような、日本男性の意識にも大変問題があると思えます。日本の男性が「可愛い」女性を好み、「可愛さ」が幼さ・未熟さをも意味するしていることを考えると、問題は男性が女性に対して対等でなく優越感を持ちたい、という男性心理文化にかなりの問題があり(自分より教育の高い女性を結婚相手に選ばない傾向が日本にはある)、そういった優越感を持たせなくなった(「可愛さ」を演じることなどバカバカしくて止めてしまった)中年女性が、男性にとって脅威であり、それが彼女たちへの偏見にむかわせるのかも知れません(この辺研究テーマを離れるので憶測ですが)。若い女性も自分たちの競争を減らすため、その偏見に便乗する面もあるかと思います。実際は優越感なんか(劣等感もです)ないほうが、よっぽど人間関係がうまくいくのですが、文化に根を置く心理は時に合理的選択を阻みます。
結局多様性と個性が重んじられて、個人差が大きくなり、年齢という尺度が人を判断するにはほとんど意味を持たない社会に近づけば、「オバサン」なるラベルも自然消滅すると思います。今はまだ日本は過渡期ですが。
投稿: 山口一男 | 2009年2月 9日 (月) 08時34分