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2009年4月18日 (土)

バクタイ役の女の子、とてもいいです。

 しつこい熱にだんだん腹が立ってきましたが、苛立ちの対象が特定できませんので、思いつめても仕方がなく、それならと、自分を楽しませたりしてあげることをしようと、本日はウダウダしました。

 先日、今日公開だと知った映画を観ようと出かけたのですが、16:30からの回にはギリギリ間に合わなさそうだったので、最終回(18:50~)に変更し、その前に久々に新宿に降りました。ああ、今日は土曜日だったのです。かなりな人出で消耗しました。目的地は、地味に紀伊国屋書店で、本日観たい本は本店の方に多そうだったので東口から本店に行きました。

 直接見たらそれほどでもなくて、3,4冊の候補は購入をやめました。それで、別の階で気になるものを購入でき、少しほくほく。こういう地味なことで、幸せを感じるところが安いというかむしろ高いというか。まぁ、価値観によりますね。

 で、混み合った新宿は早々に脱出して、岩波ホールへ。観ようとした映画は、アフガニスタンはバーミヤンを舞台とした『子供の情景』でした。

『子供の情景』公式サイト(ここ

 監督は10代の女性であるハナ・マフマルバフさん。お父さんもマフバルバフさんで監督なんです。ご一家はイランの方のようですが、この苗字、むずかしいので、印象的です。…バフだけは覚えられるけど、よく聞くので、イランには多い苗字かと思っていましたが、親子でした。

 内容は、学校に行きたいのに行かせてもらっていない6歳の女の子バクタイの、おそらく、日常風景。隣の男の子アッバスが学校で習ったことをこれ見よがしに家まで来て暗唱したりするので、バクタイは自分も学校に行って字を読んだり書いたりするようになりたいのでした。

 で、妹の世話を放り出して、自力でノートや鉛筆を手に入れようと努力するのですが、なかなか思うようにいかず、それでも、ノートはなんとか入手して…。

 アッバスと共に学校に行くのですが、そこは男の子だけの学校で、女の子は川の向うの学校に行かなくてはなりませんでした。仕方なくひとりで向かいますが、途中、戦争ごっこの男の子たちに取り囲まれて捕えられてしまうのでした。

 バクタイは終始「戦争ごっこはイヤ」と主張するのですが、それが聞き入れられないのです。ひとりを10人くらいの男の子たちが集団で取り囲む様子は、ごっこ遊びなのですけども、観ていると、なんともイヤな気持ちになりました。なぜかと言えば、観ていることしかできないからです。映画を観ているのだから、当たり前なのですけども、でも、何もすることができず、観ていることしかできないのは、かなりイヤな気分ですね。

 何がこんなに私をイヤな気分にさせるんだろう…と考えました。さっき観たばかりで、まださほど明確にはなっていないのですけども、でも、おそらく、こういうことなのではないかと思います。

 まず、男の子たちの戦争ごっこの醜悪さ。木の枝を機関銃に見立てているのだと思いますが、だから、当然、明らかに「ごっこ」なんですけど、でも、あれをこちらに向けて口で銃が発射される音を真似る姿が、観ているだけでも、「ごっこ」を超えているような感じを与えるのです。バクタイが、本当に何らかの危害を与えられるのではないか、と不安に思いながら、観ていることしかできない、そこがイヤさの1つではないかと思いました。

 もう1つは、もやもやしながら最後まで観て、「そうか」と思ったのですけども、男の子たちがその「ごっこ」に参加しないバクタイに対し、参加しないことを許さない態度に私はすごく強い拒否感を覚えたということかと思います。バクタイは、戦争ごっこをしている男の子たちに向かって、それはイヤだと何度も言います。学校に行きたいから、とも。これは、私はそのごっこ遊びに参加する気はない、と言っているとも解釈できると思うのです。なのに、その態度表明はきちんと受け止められることはない。拒否は拒否として認識されることのないまま、勝手に捕虜の役を押し付けられてしまうのでした。

 子どもの頃の集団の遊びの中には、それに入ろうとしない子どもを許さない狭量さがあると思うのですが、これは、もしかすると、万国共通なのかもしれません。参加する子どもたちだけで遊ぶのは、まぁ、いいような気もするのですが、参加しない子どもがいることを許さないこと、子どもに自分が参加するかしないかを選ぶ権利がないと感じさせられること、これが、私がこの映画を見ながら感じていた気分の悪さだったのかもしれません。

 最後の場面でも、そのことが繰り返されているように、私には思いました。バクタイは、また、戦争ごっこの男の子たちに取り囲まれてしまうのですが、そこでも、イヤだと主張します。が、それでは、彼らは諦めてくれないのでした。「ルール」を分かっているアッバスは、バクタイに言います。「死んだふりをすればいいんだ」と。「自由になりたければ、死ね」のセリフには衝撃を受けました。もちろん、「死ね」は死んだふりをしろ、との意味ですが。

 つまり、戦争ごっこに自ら参加し、彼らのストーリーに従って死ぬ、ことをすれば、彼らはそれ以上、何かを強要してくることはなく、放っておいてくれる、ということなのでした。

 彼らが従っている行動規範は、大人たちから自然と学んだもののはずです。参加・不参加の自由はない、拒否もできない、そして、この状況から「自由になりたければ、死ね」ということなのでしょうか。この場合、「死ね」はごっこではなく、現実のものなのかもしれません。

 バーミヤンの乾燥した土埃の景色と、女性たちが身にまとう服の原色の鮮やかさ、空の青の独特な感じが美しく、バクタイという名の女の子の、いかにも、アジアの子ども、という容姿に好感を持ちながら、展開される話は、あまりに日常的で、というのは、日本でも子ども同士の関係において見られるもののような気がして、重い気分を残すものでした。

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コメント

えふさん
  丁寧な紹介をありがとう、

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