想われてても、くたびれます。
今日は夏に戻ったかというほど日差しの強い日でした。お昼に外に出かけたら、とてもまぶしかったのです。まぁ、この人(=私)はまぶしがりやなので、通常の人よりもちょっとしたことでまぶしいのですが。ほかの人もきっとまぶしかったと思います。
昨夜は成立しない会話をして、疲れました。ほんの数分だったのに。たとえば、質問をしておいて、こっちが答える前に、この人のことを決めつけておいて、その前提の元にこうしたほうがいいと提案してくるとか。それについて、何か述べると、さらに、自分の意見を押しつけてくるとか。
まぁ、会話になっていないんですよね。長いつきあいなのですが、この人のことを少なくとも現時点においてどういう生き物なのかを理解しているようには思えません。過去にそうだったかもしれないけれど、今は違うとか、過去から決めつけているどこにもいないこの人のイメージを固定させて改訂することをしないのでしょうか。
会話にならないやりとりをするくらいなら、いっそ、黙っておきたい、というのはあまりに子どもじみた発想かもしれませんが、しかし、くたびれました。
コミュニケーションってなんだろう。理解ってなんだろう。などと、考え込んでしまいます。
相手を理解するっていうのは、おそらく、まずは、自分の意見を述べることではなく、相手の話に耳を傾けることなのではないでしょうか。それをせずして、何かを言うのは、宣言(あなたのことを、こういう風に決めつけています宣言)でしかないように思うのです。
この人が何を好ましく思い、何をしたくないと思っているとか、どういう状態が楽な状態なのか、とか、そういうことって、最小公倍数的な共通項はあるかと思いますが、多くの人が好ましい事象を、この人が同様に感じるかどうかはまた別の問題です。そこのところをどう考えるかは、普段の思考や日常生活の枠のサイズや種類に依存するのでしょうか。自分とは違う感覚で暮らしている人も当然いることや、いてもよいことは、理屈ではわかっているはずなのですが、感情問題になってくるとむずかしいようです。
そんなことで、すっかり愚痴モードですが、気が合うからつきあう人、気が合わないからつきあわない人、のほかに、気が合わないようだけどつきあわないわけにもいかない人、という第3のカテゴリーがあります。これは厄介ですね。ここに、さらに、向こうからは好かれている、という要素を入れると、もうお手上げでしょう。
そんなこんなで、やや刺々しい気分でいましたところ、間接的に、反省しているらしい、という情報が寄せられました。ので、不快感に集中するのは、やめることにしました。
日々平坦に暮らすのは、むずかしいですね、感情面で。
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