子どもが居ても普通に働くフランス人女性たち。
『パリママの24時間 仕事・家族・自分』 中島さおり著 集英社 2008年10月刊
本書は、『パリの女は産んでいる―“恋愛大国フランス”に子供が増えた理由』を著した後、15人のフランス人女性にインタビューをして、より個別具体的な子どもを持つフランス人女性たちの暮らしを紹介したものです。
著者ご本人も書かれているように、2005年に書かれた『パリの女は産んでいる』は、当事者(産んだパリの女)へのインタビューなどはなく、ご自分の日本とパリでの出産経験や統計データをもとにフランスでの出産と日本のそれとの違いなどを考察したものであるのに対して、本書では、当事者へのインタビューによって、産んで育てているフランス人女性の生の声を中心にまとめた内容になっています。
15人のどの女性も、子どもを産んでも、働くことが普通の感覚の方です。ただ、それは、そういう方を中心にインタビューをしたというよりは、子どもを持っても働くことがフランスの、少なくとも、パリの女性にとっては普通のことだからだそうです。
それでも。
保育所や学童保育の制度が整っているとはいえ、それだけでカバーできない部分においては、ベビーシッターや子どもの祖父母を駆使しての生活で、やはり、子どもを持ちつつ働くのは、どこでも苦労があるものだと思いました。
ただ、日本との違いは、子どものことをすべて母親のせいにしがちな点がないこと、でしょうか。
子どもに十分時間をかけてやれないことを反省するお母さんに、保育所の方が、子どものほうで合わせてくれますよ、と声をかけるくだりがあるのですが、これ、日本だと、こういうこと言ってもらえるのかな、と思いました。
もちろん、少しずつ、世の中は変わっているので、日本でも、ちょっとずつ、なんでも母のせい、という態度にも変化があるのかもしれませんけどね。
母親への期待やプレッシャーが強いほど、少子化しそうな気がしているんですが、パリでは、その点がないことが、子どもが増えている理由のひとつなんじゃないかと思って、少子化しているのに、いつまでも母親の子育て責任が重いままのどこかの国のことを思うと、こういう点こそ見習うべきではないか、と思いました。
それにしても。
フランスは、女性労働力率が高い国のひとつですが、女性は本当にいろいろな職業についておられることがわかります。
本書は15人のことだけしかわかりませんが、日本では子どもを持つ女性の7割は仕事を辞めているわけですから、辞めていることが普通なわけで。
パリでは、子どもが居ても、仕事をしているのが普通なのだとすると、そういう社会に変っていかない限りは、少子化していくことをとめることは難しいのではないかと思いました。
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えふさん
これはまさにご指摘のとおりですね。母親が働き続けることが普通、出産は母親にしかできなくても育児は家族(夫、親)も育児施設や地域のコミュニティーも含め、みなが携わり母親だけに負担がかからないことが普通、少し大きくなって物事が見え始めた子ども自身も、働く母親の状況に理解を示し協力するのが普通、それでこそ家族でありまた子育てが負担でなく喜びに変わる社会なのでしょう。フランスというととかく手厚い育児手当のことばかり強調されがちですが、単なる経済支援でなくフランスで普通であって、わが国では普通でないことの違いが大きいことを社会政策に携わる政治家も、関係官庁の官僚もわかってほしいものです。
投稿: 山口一男 | 2010年12月20日 (月) 09時54分
山口一男さん
ありがとうございます。
どうも日本では、母親に過重な責任がかかり過ぎており、また、そのような社会で生きていると、母親自身も自分に過重な負担を課して、果たせなければ自分を責めるようなところがあるように思います。
そうすれば、子育ては負担以上に負担感が多く、一人目の後に、二人目を考えることさえ、避ける傾向があるように思います。これは、山口さんのご研究でも指摘されていることかと思いますが。
母親本人も周囲も、そういう過重な責任を母親に課さないようにして、喜びの割合を増す方向に変っていくことが必要ではないかと思います。
「普通」の問い直しが不可欠かと思います。むずかしいことではありますが。
投稿: えふ | 2010年12月20日 (月) 21時26分
えふさん
>保育所の方が、子どものほうで合わせてくれますよ、と声をかけるくだりがあるのですが、これ、日本だと、こういうこと言ってもらえるのかな、と思いました。
日本の親は、特に母親は、とかく子どものために自分が自己犠牲をして、何かかをしてあげられればあげられうほど、親としての役割を立派に果たしたと思いがちです。過重な負担の意識はその反動としてあると思います。確かに愛情は子どもには必須です。でも、幼児は別として子どもは常に受け身でなく、自分も家族にたいする思いやりを学ぶことで成長するのだと思います。「こどもの方であわせてくれる」という言葉は、そういう子どもにとって価値のある学習の意味を持っていると思います。子どもの理解と協力を期待することは、子育てに手を抜くことでなく、子どもに成長の機会を与え、またその成長を喜ぶことでもあるのだと思います。
投稿: | 2010年12月20日 (月) 22時51分
山口一男さん
そうですね。
たぶん、子育てって、親からすれば、自分がいなくなっても子どもが生きていけるような力をつけるためにサポートすることだと思うんですが、過保護に世話をし続けることで自分がいなければ立ち行かないような存在を作り出すようなことをしている面があるように思います。
まぁ、産みたては完全にすべて誰かが世話をしなければどうにもならない無力な赤なので(人間の場合)、それが少しずつ成長して少しずつできることも増えていってと、相手(=赤)の変化に合わせて適度につきあい続けるのは、ずっと同じ調子で過保護を続けるよりも、格段に難しそうですが。
結局、自分を不要にするべく努力するという点で、ちょっと社会問題に取り組むアクティヴィストのような態度が求められるように思いました。
そういう共通性があるように思うのですが、いずれも、自分が不要とされることに寂しさを感じるという点でも共通しているように思います。
親も自分が必要とされる存在でいたいわけですし、ちょっとした不要論に思えるそういった発想は歓迎されなさそうです。
執着や愛情の対象との距離の取り方って、むずかしいですね。
投稿: えふ | 2010年12月21日 (火) 22時22分