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えふさん
確かに小鷹さんという医者は大野更紗さんの問いかけに誠実に答えているようですが、以下の表現は気になりました。
「見方を変えるならば、『等級を決めるような序列化には、そのような可視化できる評価をもってしか公平性を担保できない』ということなのではないだろうか。自分で歩けなくなったから3級、立ち上がれなくなったから2級、片腕を失ったから1級という判断は、誰の目においても理解の及ぶところである。自覚的な症状である"痛み"や"しびれ"といった症状を用いて平等に等級付けをすることは、なかなか難しい。」
僕は医療の専門家ではありません、しかし「痛み」や「しびれ」というものが自覚的にしか測定できず、客観的評価が難しいという議論には驚きました。もしそうなら、現代医学というものは科学としてかなりいびつな発展を遂げた気がします。なぜなら「痛み」とは「しびれ」というものは実際に存在し、存在する以上客観的な原因(神経への異常な刺激や、神経の異常な無反応)があるはずですし、痛みというのは根源的問題ですから、それが自覚でしか測定できないというのはあまりにも御粗末です。また何に基づくのが障害者認定に公平化について、もっとも切実な「痛み」が無視され、簡単に操作計測できるものにだけ応じて計るなら、例えば人間の能力を脳の大きさ・重さで決めてしまうような、粗雑さを感じます。そのために大野さんのような人が、障害者認定から落とされるのなら、やはり現代医学・医療は本当におかしいです。
この書き込み、原文の方にしたかったのですが、メンバー登録がないと書き込めないサイトなので諦めました。
投稿: 山口一男 | 2011年2月24日 (木) 08時04分
山口一男さん
ありがとうございます。
おっしゃるように、医学においては、「客観的」というものが、肉眼で見えるような、ものさしで測れるような、ものすごく単純で、素人にもわかるような、そういうものを「基準」と呼んで、客観性を測っているかのような、そういうことを「公平」と考えるような、そんな感じに私も受け止めました。
しかし、いっぽうでは、非常に精密な計器を用いて、肉眼では見えない、エックス線を用いて骨や体内の様子を観察したり、MRIなどという大掛かりな装置を使ってからだの断面図を撮影したりと、非常に測定法の進んだ分野もあるように思います。
痛みやしびれについては、なにゆえ、測定のための技術が進んでいないのでしょうか。そこが気になるところですし、そこを明確化することと、障害者認定にかかわる考え方を理解することとは、なんとなくですが、近いところに謎がありそうに思いました。
リウマチの罹患者は、女性に多いといった性別に発生数の偏りがある病気がありますけれども、女性がかかりやすく男性があまりかからないといった病気や障害も、究明が遅れている印象があります。
理由は複数でしょうが、ひとつは、治験などに母性保護の観点から歴史的に女性が治験対象に考えられてこなかったことがあるようです。
あとは、女性が歴史的に痛みをがまんすべき存在と見なされてきたこと、もしくは、女性の痛みは軽視される、ということもあったのではないかと思います。これは、地域差もあって、日本は出産時の痛みの軽減を麻酔などで行わないこと=自然がすばらしい、という発想があるからだと以前に何かで聞きかじったことがあります。
医学研究も、国が何を力を入れて研究すべき病気と見なすかによって、測定法や治療法の発展の速さが決まるような気がします。
見た目には、どこも健康人と変わらない外見の人も、いろいろ病気に苦しんでいることがあることを、一般の人に啓発することも必要ですが、いろいろな給付や認定の場面において、素人がわかるような尺度のみをもって、認定されるような、そういうことが再考されることを望みたいですね。
投稿: えふ | 2011年3月 1日 (火) 00時18分
えふさん
丁寧で示唆に満ちた返答をありがとう。こういう「痛みの測定」といった問題にもジェンダーが絡んでいるのですね。アメリカでは出産にともなう痛みの軽減は本人の選択事項として、あらかじめあるいは出産中の初期段階に女性が選択できるよう、どの病院でもなっていると思います。痛みの軽減措置をしないことが「自然」という発想が日本の一部地域にあるのですか。それが個人の選択ならともかく、規範的押し付けがあるとすれば、確かに大きな問題ですね。「自然」で良いとなれば、極端に言えば問題があっても応急措置をも阻み、新生児死亡率も母親死亡率も上がってしまいます。
投稿: 山口一男 | 2011年3月 1日 (火) 03時49分
山口一男さん
こちらこそ、ありがとうございます。
前回の私のコメントですが、「地域」は「世界の地域」を意味していました。つまり、日本に地域差があるという意味ではありませんでした。
「痛みの軽減措置」がどのような内容なのかが正確にわかりませんが、仮に、医療行為(麻酔等の点滴)のことを指すなら、それは、かなり、忌避されているようです。
ただ、産む姿勢や陣痛をこらえるときの姿勢や過ごし方には、多少、フリースタイルが取り入れられたりはしているようです。つまり、医療者が介助しやすい体勢をとるようにすると、仰向けで、横向きに押し出さなければならないので、かなり、無理があると思うのですが(医師本位)、からだを起こすと、重力が利用できますし、四足の動物っぽい体勢をとったりもできるとか、痛みを逃がしやすい姿勢を選べる産院(妊婦本位)も、少子化とともに(市場原理で?)進化しているようです。
日本では、妊産婦に対して、同じ女性である助産師さん(昔の産婆さん)が、痛みの訴えに対して、かなり厳しい指導をすると聞いたことがあります。
それから、いわゆる「無痛分娩」というやつは、麻酔を使うのですけども、日本ではあまり積極的でない理由のひとつが、「自然でない」です。ここには、自分の痛みと子どもの安全を比較したときに、子どもに何かあってはいけないという発想があるようです。他にも、「無痛分娩」を希望しても、「医療崩壊」のために、産科医不足なだけではなく、麻酔医も不足しており、「無痛分娩」が技術的・設備的に可能なところも少ないということがあるようです。
ですので、規範的な問題もあり、同時に、制度的な問題もあり、それらが相乗効果で、現状を招いていると言えそうです。
現在は、産科医不足が随分報道されて認識されてきたようにも思うのですけども、今は、産婦が死なずに出産できるような産科医の配置が最大の問題で、それに比較すれば、「痛み」について論じられる雰囲気ではないのかもしれません。
しかし、長時間の痛みは、体力も気力も激しく失わせるものですし、仮に、第1子で相当大変な思いをすれば、第2子以降の意欲にも負の方向でかかわってくるのではないかという気がします。
「自然志向」は、日本に強いと言われています。他国はよく知りませんが、フランスでは、産後のプライベートゾーンのケアにまで保険がきくと読んだことがあります。
それらから考えると、「自然志向」だけではなく、必要なケアを堂々と主張できないような土壌も日本にはあるのかもしれませんね。黙って耐える患者が人気があるというのは、各国にも見られるものなんでしょうか。
お陰さまで、いろいろと考えさせられました。
投稿: えふ | 2011年3月 1日 (火) 22時44分