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2012年5月 9日 (水)

毒婦。~なぜ、女性の容姿はここまで問題にされるのか~

20120430


毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記
北原みのり (著)
朝日新聞出版 (2012/4/27)

 事件が起こったのは2009年ですから、もう3年ほどになるわけです。

 その間、この人(=私)はちょうど激動の仕事状況で、あまり、丁寧にこの事件のことを気にかける余裕がなかったのですが、最近になり、一審での判決が出るに至り、北原さんの傍聴記を読んでみなければならないと思ったのでした。

 その理由ですが、なんというか、木嶋佳苗被告の事件の取り上げられ方に、一種独特のものを感じたことと、さらに、傍聴に佳苗ファンともいうべき女性たちが列をなしたという報道に、現代社会、女性と男性、性をめぐる諸相・・・みたいな問題群を考察する必要を感じたというか・・・、まぁ、そんなに真剣にならなくてもいいんですが。

 佳苗被告の容姿をめぐる揶揄的、蔑視的報道に気になりましたが、これは、従来の男性メディアが女性の容姿を批判するのと同様の、目新しさはないものです。

 しかし、今回の目新しさは、佳苗被告と同世代の女性たちが、佳苗被告を支持しているかに見える関心の持ち方だとか、佳苗被告の発言に騒然とする雑誌男性記者の様子に、不思議なものを感じたからでもあります。

 また、本書ではないのですが、女性ライターさんなどの中にも、佳苗被告を論じている人が何人かおられました。そのうちのひとつは、正確には覚えていませんが、佳苗被告に対する態度は、その女性の自分自身に対する評価を反映しているのではないかとの指摘があり、鋭い意見だなと思ったのでした。

 それは、たとえば、佳苗被告の法廷での検察官とのやりとりの中に佳苗被告の知性を見るものは、自分を知性的な女性だと評価しているのではないか、たとえば、佳苗被告のモテぶりが気になる人はモテる生き方を指向しているのではないか、とそんなものだったように思います。あやふやですが。

 あ、ありました。ウェブ論座の購読をしないと全文は読めないので、この人は全文は読んでおりませんが、途中まででも十分に興味深い記事ではありました(ここ)。

 そんなことで、かなり遅れたこの人ですが、判決が出そうになった頃になって、ようやく、佳苗被告に関心を持つようになりました。

 とはいえ、佳苗被告に関する疑問として、「その容姿でなぜ男性にモテるのか」というのがありますが、これは、「男性はみんな美人が好き」「男性はみんな美人とつきあいたい」「男性はみんな美人と結婚したい」という偏見とセットとなって成立する疑問であって、その前提が共有されていない人々にとっては、「なぜ、そんなに疑問に思うの?」というものかと思われます。

 この人は、こういうやや古めの前提は、すでに多少は変化を遂げてきていると思っていたので、新鮮でした。変化を遂げたのではというのは、「実態」ではなく、「偏見」のほうですよ。

 本書に戻って、読後感を書いたものをよそでいくつか読みましたが、著者の北原さんの疑問の持ち方に対する批判なども目にしました。それは、佳苗被告が相手の男性とメールでのやりとりが始まったすぐの頃に、「経済的な支援をお願いしたい」とかなり強気でストレートな要求を伝えているところを指して、驚いた旨書いている点につき、「そんなことは驚くにあたらない。男女の関係では、昔から当然あること」なのに、著者の感覚(そういうことに違和感を覚えたことなど)がおかしいのではないかと書かれてあったことです。

 たしかに、今でも、女性は男性に経済力を期待し、男性は女性に家事や性的な充足や精神的なケアを求めるという構図は、社会の仕組みが男性に経済力を与えている以上、あまり変わっていません。

 ですので、批判的な気持ちはないのですが、著者は、そういうタイプの女性ではなく、また、おそらく、子どもの頃からそういう人生設計をしたこともなく、今でも、そういう路線に行こうとは思っていない方だからこその、疑問の持ち方なんだろうなと思いました。

 反対に、その批判をしている人たちは、たぶん、達成されたかどうか、成功したのかどうかは別として、そういう男性に経済力を期待する生き方、その男性を支えることでの女性としての人生設計を、さほどおかしいとは思わず、自分にとっての選択肢としていたこともあるのかもしれません。

 佳苗被告の存在自体に、世間の人々が驚き、関心を持ち、何か知らないふりができないように、また、上にも紹介したコラムのような、佳苗被告は、世間の人々の、男女関係というもののあり方に対するリトマス試験紙のような機能を果たしているような気がしました。

 同時に、本書も、リトマス試験紙なのではないかとこの人は思っています。

 現代社会における男女のあり方に対して、疑問を抱いている人にとっては、本書はその違和を言語化してくれる清涼感のある読み物でしょうし、「男と女って、そういうものなんだ」と思っている人にとっては、何か後味の悪い、口にしなければよかった不味い食べ物のような読み物なのではないでしょうか。

 そして、この人の違和は、著者と共有できるものもあります。殺人については、状況証拠しかなかったにもかかわらず、かなり強引に死刑が言い渡されたと思います。

 その理由の分析として、佳苗被告の女性としての生き方が、現在においても求められる清純で弱弱しげで、できれば泣いたりもして、堂々と経済的援助を要求したりせず、美人で、被告になってからは、毎回同じような地味な服装でやつれたような表情で、反省の言葉の数々を口にしていくような、そういう従順な求められる女性像をあたかも本当の自分のように演じることのできなかった(しなかった)佳苗被告に対するジェンダー体制からの罰なのではないかというのに対しても、同意見なのでした。

 しかし。

 殺人によって死刑判決が出るのならともかく、期待される女性でなかった言動、もっと言えば、期待される容貌でなかったことで、受ける罰、それが死刑だというのなら、それは、裁判員制度、それだけではなく、日本の司法制度そのものの根幹にかかわる重大な問題ではないかと思います。

 この人は、実際に法廷に行ったことはなく、それから、証拠の調べについても、詳細に自分で吟味することはしていません。

 疑わしいとは思うけれども、しかし、日本の司法においても、「推定無罪」「疑わしきは罰せず」が原則であるのなら、もっと、説得性のある証拠をなんとかして探し出してくる必要があるのではないか、という気がします。

 結論として。

 この人の結論としては、裁判員裁判だった一審での法廷劇と、それに関するマスコミの報道、さらに、そこから派生する佳苗被告の容姿や言動への様々な情報・意見などは、一部重なるところもあるかもしれませんが、丁寧に別のものとして、扱わなければならないのではないか、という気がしました。

 たぶん。佳苗被告の容姿や言動のために、マスコミ報道は揶揄的なものが多かったのではないかと思うのです。で、法廷に詰めかけた人の中にも、そういう関心の方もおられたのでしょう。

 それが、判決に影響を及ぼしたのかどうか。

 あってはならないことなのですが、その辺り、どうなのでしょう。そこが気になります。

 佳苗被告は速やかに控訴。この裁判は今後も続くのでした。

 今後は、乗り遅れずに、注視していきたいです。

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