近未来予測ができるのに、現実を変えられない無力感。
まだ暑かった頃のことです。
ひとの仕事が進んでいないので、このままだと秋に予定されているものが大変なことになると思い、何度かそれを説明しました。
その後、やはり、なかなかそのことについての話が進んでいないようでしたので、再度、急がないとこのままでは大変なことになると進言しました。
この人(=私)の予測では、その担当者が進めない(進められない)ことがどんどん溜まり、しかし、予定されている日程をずらすことはできない種類の仕事なので、きっと、周囲が手伝うことにならざるを得ないということでした。
その予測の中には、この人やその担当者よりもいつも仕事が多い人たちも含まれていたので、なんとしても、そういう動員はやめさせなければならないと考えての、複数回の発言だったのですが。
そして。
時期はあと半月というところにまで迫り、見かねた周囲が手伝いを始めることになりました。
かかわってみると、見通しの甘さでやってきてしまっていたことが複数あることが発覚。
なんとかなるだろうという楽観(?)的な態度でほったらかしてあったことを切り分けて、この人が担当することになりました。
それ自体が、まず、ノープランだったので、企画自体を考えるところから考えなければなりませんでした。
そのあいだにも、日が迫るので、仕方ないので、「素晴らしいものにはならないが、最低限の水準をクリアする」ことを目標とし、なんとか、間に合わせることができました。ただし、その担当者がかけている迷惑分の謝罪も併せて引き受けることに自動的になってしまい、あちこちに謝りながら、いろいろと代理で費用負担まですることになってしまいました。
振り返ると、この人が折に触れて、「このままでは、きっとこういう風になっていく」と注意喚起していたことが、かなり高い精度で実現してしまったのでした。
その後、関係者から、その担当者のことを指して、「喉元過ぎれば」ですか?と聞かれたので、この人は、「熱い思いをしたのは、本人じゃないから」と説明しました。
斯様な経過を経て、なんとか、やらねばらないない日が決まった仕事はクリアされたのです。そして、この人の近未来の予測もかなり正確にできることも周囲の数人には証明することができました。
なのに、この無力感。
それは、注意喚起をした際に、そのときからでも、もっとしっかりと話を進めていれば、こんなことにはならなかったと思うからです。
それなのに、それをしなかった。
そして、当の本人は、大して困りもせず、周囲の人がそのツケを引き受ける結果となりました。
これも、この人が予測したとおり。
そして、この人も、その巻き込まれた当事者なのです。
予測の力が多少あったところで、自分さえ助けることにならない無力な預言者の気分です。
そのために使った時間分、自分の仕事が遅れているわけですが、それは、誰も手伝わないという悲しさ。
こういうことから導き出せる教訓は、以下のようなものでしょう。
1.ギリギリまで手をつけないで、何もしないでいると、周囲が助けてくれる。
2.計画的に、先を見通して仕事を進めていると、仕事をしない人の分をするハメになり、損である。
こういうしくみは、よくありません。
勤勉に働かないことの結果が、報酬をもらえるということと同じだからです。
それを、どうすれば、努力している人が報われるしくみに変えることができるのか、この人の周辺のことについては、小さいですが、もっと広く見られる現象ではないかと思うので、かなり大きな課題ではないかと思います。
今日は、ちょっと真剣に検討してみました。
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