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2013年5月11日 (土)

才能は、個人のものか、それとも、社会のものか。

言葉を育てる―米原万里対談集 (ちくま文庫)


 最近、米原万里さんの著作をリバイバルしていて、以下のところに、強い感銘を受けました。この話は、別のところでも、出てくるんですが、誰かの才能を素直に喜べるというのは非常に素晴らしいことですよね。

 対談相手は、神津かんなさんです。このときは、かんなは「十月」と表記されていましたが。
 

米原 ロシア正教の考え方かロシア人本来の考え方かわかりませんが、才能は神様からもらったもので個人のものではないという考え方があります。私は九歳から十四歳(1960年1月から64年10月)までの五年間、チェコスロバキアの在プラハ・ソビエト学校に通っていました。プラハの人たちは頑なにロシア学校と呼んでいましたが・・・・・・。

 そこでは生徒が絵や歌、詩の朗読が上手かったりすると先生は心の底から感動し、ときには授業の最中でも教室を飛び出して職員室まで行き、そこにいる先生すべてを呼んできたりしました。そして同様にまわりの子どもたちも一緒に喜ぶのです。才能をもっている人と同じ空間に生きていることを純粋に喜び、そのことを祝福するのです。ですから、その才能と自分とを比較したりは決してしません。つまり劣等感がまったくないのです。足の引っ張り合い、妬みという感情が稀薄で、それがすごく心地よかった。だから十四歳のときに日本に帰国したときに、「劣等感」という言葉がやたら飛び交っていて、とても新鮮に感じたぐらいです。ロシア語でもインフェリオティ・コンプレックスという心理学用語や学術用語としての「劣等感」は使っているけれど、日本では一般的な子どもの会話に終始出てくるのがすごく不思議でした。

 以前、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチさんの通訳をしたことがあります。この人は作家のソルフェージェニーツィン氏をかばったかどでソ連邦の市民権を剥奪され亡命したわけですが、コンサートを終えたある晩、ウォトカを飲み交わしていた最中に突然ロシアに帰りたいといって泣き出しました。「銃殺されてもいいからロシアに帰りたい」と。彼は亡命後すでに十六年間も西側に暮らしているのですが、西側にいていちばん辛かったことは、まわりの人が才能のある人の足を引っ張ることだといいます。ロシアでは才能があるだけで無条件に愛され、まわりのみんなが助けてくれたというのです。国によって才能に対する受け止め方が全然違うのですね。

 彼は舞台に出るときにも絶対にあがらないそうです。音楽家は神経質な人が多くて、コンサート直前なんてイライラして周囲五十メートルぐらいは地獄のような状態になるのですが、彼はいつも平常心でいるのです。「なぜあがらないのですか?」と聞いてみると、「僕の才能は神様からもらったものだから、僕自身のものではない。僕は才能を単に差し出すだけですから緊張はまったくしないのですよ」と言うのです。彼は熱心なロシア正教徒で、その影響が強いのだと思いますが、多かれ少なかれロシア人はそういう考え方をもっているように思います。

神津 あがったり、妬みを感じるようでは、”才能がある人”とはいえないのですね。紙から与えられたものをそのまま差し出しているわけじゃないから、自分をよく見せようと思ったり、いろいろ小賢しいことを思うわけですね。なるほど。

米原 そのことと日本に帰ってきたときに感じた劣等感がピタっと一致しました。在プラハ・ソビエト学校は五十か国ぐらいの子どもが通っていて、一クラス二十人ぐらいなのですが、どの教科でもできることできない子の差がものすごく大きいのです。でも面白いのは、できない子もできないことそのものが個性としてまわりから認められていうrということです。つまり、どうできないかということが個性なのです。試験も○×や選択式ではなく高等試験かレポートですから、できないことのなかにちゃんと個性が表れるのです。でき方にもいろいろなでき方があって、ひとつとして同じものがない。ですから比べようにも比べられないのです。

 日本の学校は○×と選択式の試験だからロボットが答えても同じ答えになるし、先生でなく機械でも評価することができます。生徒をみんな一列に並ばせ、同じひとつのものさしで評価しますから、できる子とできない子の区別は明確になってしまいます。そこに劣等感がうまれるのは当然ですよね。しかも学校も親も同じものさしで見ますから、劣等感をもった子どもは救われません。救おうにも別の尺度をもつものさしがないのですから、ロシアの学校では、できようとできまいとそのものが個性で、地球上でたったひとりの存在だということを常に感じるわけです。そうであるならば、人と比べたり劣等感をもったりする必要はまったくないわけです。日本に帰ってその差がすごく大きいなと感じました。(88-91頁)

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