走らなかったメロス~今日は食欲がありません~
今日は、「無銭飲食」という言葉を学ぶとともに、間抜け、人質と質、ひとり時差などについても、考察したいと思います。
定食を注文し、黒酢に心酔しつつ、もちもち五穀ごはんを楽しんで、大いに満足し食べ終わりました。その途端、財布を持ってきていないことに気が付いたのです。
ど、どうする!?
しかし、この人(=私)は落ち着いていました。そういえば、出がけに、玄関に置いていた財布を入れた小さいバッグを持ってきていなかった、とわかったからです。
一切の現金がない状況ですので、もう玄関まで取りに戻るしか選択肢はありません。
そうと決まれば、すぐに会計に向かい、「すいませんが、財布を忘れたので、とってきます」と言って、その時に持っていたバッグから玄関の鍵だけを取り出して、あとは全部お店の人に預けました。
「15分くらいで戻ってきます」と言い残し、メロスは走らずに、家までの道を急ぎました。
そういえば、この人がまだ若かった頃、中学校くらいの教科書に「走れメロス」が掲載されていましたが、最近はどうなったのでしょうか。
つい最近、走れメロスの物語を検証し、メロスが往復した道の距離と時間から、「メロスは走っていなかった」という研究を発表したというニュースを聞きました。たしか、これは、若い人だったと思いますので、やはり、教科書には今も「走れメロス」が載っており、若い方々は、メロスと友の熱い(男の)友情というヤツを教室で学ばされるという憂き目に遭っているんでしょうね、きっと。
つい最近、走れメロスの物語を検証し、メロスが往復した道の距離と時間から、「メロスは走っていなかった」という研究を発表したというニュースを聞きました。たしか、これは、若い人だったと思いますので、やはり、教科書には今も「走れメロス」が載っており、若い方々は、メロスと友の熱い(男の)友情というヤツを教室で学ばされるという憂き目に遭っているんでしょうね、きっと。
メロスが苦しさに耐えて必死で走って往復するからこそ、なんとなく、その物語と友情に、「感動しなければならない」押しつけがましさを感じて、若い頃のこの人は胸が悪くなったものでした。ええ、その頃から、立派にひねくれておられましたんですのよ、奥さん。
結局は、物語の中核は、約束を果たせば自分が死刑になる運命をメロスが友情のために受け入れるのかどうかということと、もう一方の友人がメロスが戻ってこなければ自分が代わりに死刑を受け入れるということの間で、読者がハラハラしつつも、約束を果たす、つまり、自分の死刑を受け入れるために戻ってくるメロスに感動を覚えるのが、正しい中学生のあり方だったわけですが。
冷静に考えれば、それはそれで、究極の選択というか、自分の命と友情を天秤にかけて友情を取るというところに、感慨を覚えることもできるかもしれないんですけどね。
ひねくれていたこの人は、まずは、「男の友情」というところが必要以上に高く評価されていることや、そもそもの前提であるメロスが死刑になった理由がおかしいのに、その前提を受け入れて、死ぬか生きるかを必死で選ばなければならないルールのおかしさなどを、中学生は問題にすべきなのではないか、と思うわけです。
物語は物語として、時代背景を考えれば、不条理なことでも身分制度の下で受け入れざるをえないということもあるのかもしれません。
だけど、教室は、民主主義下の学校教育で、自ら考える力とか批判精神を養うべく日々勉強しているのではないのでしょうか。おかしな為政者がいたら、どうすれば、非暴力的な方法で、辞めさせることができるのかなどを考える教材にすべきでしょう。
せっかくですから、ここで、首長をリコールすることができるとか、王政の無血開城みたいな方法とか、選挙に投票に行くことの重要性などを学ばせるべきでした。そうだ、だから、現代国語の授業で取り上げる主題ではないんですよね。公民とか、現代社会とか、そういう教科で取り上げればいいのに。
そこを、男性同士の友情という問題に矮小化し、さらに、教員の、感動の押し付けみたいなもんが、この人は嫌いだったのです。
感動したい人は、自由に感動すればいいのであって、人から押し付けられるものではないと思います。ましてや、中学校教員と生徒では、圧倒的に教員の立場が強いわけです。そこで、感動のような感性の問題を押し付けられることが、いやでしたねぇ。
こういうことも、「感情の管理」と言えるものなんでしょうかね。その場の状況に応じた適切な感情の持ち方が強要されているようで、国語の時間、特に小説や物語の時間が嫌でした。国語の成績はよかったんですがね。
記憶にないだけかもしれませんが、「走れメロス」といい「山月記」といい「こころ」といい、男性の悩みを学ぶ場は結構ありましたけど、女性主人公の悩みとかに焦点化して学ぶ教材はあったんでしょうかね?
ま、うん十年も経っているのに、こんなに鮮明に嫌さを味わえるなんて、この人もなんて、執念深いんでしょうか。
そんなことを思いながら、玄関まで戻り、財布は思った場所にちゃんとありましたので、引き返しました。
店に支払いに行くと、メロスの大切な荷物はちゃんと保管されていました。まぁ、メロスと違って、15分ほどで戻れば、特に大きな事態にはならないもんです。
そんなこんなで、無銭飲食未遂が行われた現場では、何も知らないで和やかに夕食をとる人々がまだたくさんいました。
平和って大切ですね。
もし、ここが無銭飲食が横行しているような土地柄だったら、この人も、荷物を質にしても、そんなに簡単に解放してもらえなかったかもしれないじゃないですか。
とか言いつつ、だいたい、これまでの人生で、うっかり間違えたことをそのまま説明すると、だいたい信じてもらえましたけどね。たとえば、切符を間違えて買った、とか、間違えた改札に入ったとか、出入り口を間違えてやり直したい、とか。
あ、それで、無銭飲食はdine and dashなどと辞書にはありますが、もともと逃げる気がなく、かつ、未遂なので、未遂はan attempt at~です。
そうすると、うっかりと無銭飲食未遂をした、という感じになって、
I almost had an attempt at dine and dash.
くらいでいいんでしょうか?
「間抜け」は、いっぱい単語があって、断念です。
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えふさん
この記事最高です!
アメリカで教育材料に『走れメロス』を取り上げたら、こういう展開に絶対になる気がしますが、そういう発想の転換の重要さを教育しないのが日本の教育です。昔から日本はAとBどっちもいやな選択を社会が若者に押し付けて、でもそういう社会になっていることの批判は無視してAがいいかBがいいか若者に問うんです。
戦前なら「国のために命を捨てて英霊となり、『家族の誉れ』になる」か非国民・臆病者とののしられて『家族の恥』になる』か」です。答えは決まっていて、だから多くの若者は国のために死ぬことを前提にして生きることを強いられました。
現代なら「長時間労働して自分や家族との時間など無いに等しい正社員になる」か「時間は少しあるけれど、賃金は買い叩かれ将来の見込みの無い非正規雇用者になるか」の選択です。ここも答えは、少なくとも男性には「自分を犠牲にして正社員になれです」。
でも、日本と同じように経済成長した欧米ではこんな無茶な選択は強いられないですよ。EUでは残業を含めて週最大48時間労働という制限を設けています。だから日本社会がおかしい。でも日本の道徳は社会批判を許さず、それも一定の方向に向けて個人レベルで解決すること、を説くわけです。
最近ではまた為政者は排外的な若者の心情を利用するかのごとく靖国参拝を「英霊への尊崇の念」を示すなどと表現し、古い言葉を復活させて国粋主義のためにシンボル化しようとしている。また若者に国のために自己犠牲を強いる国にしたいのでしょう。それが「強い国」になることだと思い込んでいるのでしょうか。
日本の強さは戦後の自由の中での教育の高さと、その結果、高い技術や生産性を生みだした人的資本にあったのに、企業も政府も人の自由をより強く制限しようとしています。同じ過ちを繰り返しまたて国民に大きな犠牲を強いるなら、歴史を学んでいないとしか言いようがありません。
投稿: 山口一男 | 2014年2月25日 (火) 04時59分
山口一男さん
丁寧なコメント、ありがとうございます。
そうなんです、提示された選択肢をいずれも選びたくないっていうこと、あっていいと思うんですが。
ただ、うまく説明できないと、単に「子どもっぽい」とか「世間に適応してない」とか「社会性がない」との評価を受けないとも限らないです。
日本社会がかなり特異な世界だとしても、そこで生きていくことを前提にするなら、現状の社会に適応すべく「提示された選択肢の中から選ぶ」ことができるスキルが生き抜くスキルになってしまうからでしょうか。
本当は、現状に適応していくための教育を重視するだけではなく、現状を変えることができる発想や技術、方法を学ぶのも、前者と同様に重要なことではないかと思うのですが。
住んでいる社会のルールに従って、その枠組みの中で働くことができる人を育てることが、親や学校が果たさなければならない子ども・青少年の社会化とされていることに、疑問があります。
でも、自分の子どもや教え子が、社会にうまく適応できずに、暮らしていけないとなると、やはり、困るというのが、素朴な心情なのではないか、と思います。
長時間労働で、全員が過労死するなら、又は過労死(過労自殺)率が80%以上などであれば、もっと、ずっと問題視されるのでしょうが、顕在化するのは、こういった雇用者の生死に係る問題ではなくて、新規に人間が生まれない(出生率、出生数の減少)などの、企業や労働組合などからすれば、別次元の問題と捉えるところに出てしまうので、対応が後手後手になるのかもしれない、という気がしました。
投稿: えふ | 2014年2月27日 (木) 00時34分