問題への対処の仕方
今日は長崎原爆の日でしたね。
原爆に被害にあった親族が、皮が垂れ下がるような姿になりながら、水を求めて歩くという描写や、黒焦げで本当に自分のお母さんかわからなかったという証言など、それを見てもどうすることもない人たちの気持ちを思うと、気の毒で、なんとも言えません。
こういう悲惨さの表現は、子どもの頃、小学校の修学旅行などで資料館を訪れたりしたことからも、何度も聞いているのですが、年々、歳をとることで、より一層、いろんなことを考えて、理解が深まる分、親族の悲しさとか、ご本人の無念さとかを想像できるようになっているように思います。
ひとが亡くなることの意味も、子どもでは、浅い理解にしかならないのは当たり前といえば、当たり前で、大人になるほど、意味を深く理解していくようなところがあるのでしょうね。
今日は、仕事の面で起こった問題に、どう対処するかの会議を行いました。
組織としてどう対応するかの相談というのは、関係者を集めて、さまざまな観点から、今からとりうる現実的な対応法を、少なくとも複数吟味し、そのメリットやデメリットを出し合ったうえで、こちらのほうを選びたい、と理由も添えて、より上の意思決定者や会議体に提案することだと思っていたのですが。
必ずしも、そこの理解が共有されていないことがわかりました。
今回の問題が起こったことの理由を、個人のせいではなく、システムのせいだと考えるのであれば、対応法もシステムとして、つまり、組織として相談して作っていくのが当然の流れだと思うのですけれども、どうしたいかを、個人に投げるっていうのが、実行されそうになり・・・。
この人(=私)としては、今からとりうる現実的な選択肢は、大きくは2つしかないこと、その1つ1つの流れを説明し、どっちかをとるなら、こうなるだろうと説明してみました。
最終的には、そういう考え方や枠組みを示したうえで、ご本人が何を希望するかを聞いたうえで、案としての順位付けを行ったのですが、それにしても、異文化だとは思っていたものの、どの辺までを共有していて、どの辺までも共有していないのかは、具体的なことを示しつつ、対話をしなければ、わからないものなのだなぁと再認識した次第です。
あんまり歓迎しない出来事、つまり、トラブルが発生した場合には、それほど、時間を置かずに、対処方針を案レベルで作成して、より上のほうに報告しつつ、決定を進めるべきだと信じているのですが、今日、この人がそれを言わなければ、たぶん、このまま連休に突入して、お盆モードになるところだったのではないかと思うと、手前みそですが、実行してよかったです。
そのミニ会議に参加者として参加して、やはりよかったです。
いろいろこういう経験を踏まえると、われながら、この人の判断力や問題の整理の仕方は、そこそこ高いレベルなんだなぁと思いました。
まぁ、あんまりそういう経験をしないでやってきた人たちの中で、比較しても、仕方がないんですけどねぇ。
自分の能力を活かせる環境を作っていかなければなりませんです。
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