詳細は、ここです。
「得も言われぬ」なんて、言葉を使うことを、多少は躊躇します。
やはり、言葉を使って生きているイキモノが、簡単に、「言葉にできない」とか「得も言われぬ」とか使ってはいけないような気がするからです。
今日は、引き込まれるような眠気と闘いつつ、ときどき、うとうとして、でも、なんとか夜になるまで起きていました。
台風が接近しているので、そのために、だるかったり、場合によっては、今日のように、非常に強い眠気が襲ってこられます。
本とペンを持って闘いましょう。それこそが、わたしたちのもっとも強力な武器なのです。ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです。
マララ基金は、ここ
“I think of it often and imagine the scene
clearly. Even if they come to kill me, I will
tell them what they are trying to do is
wrong, that education is our basic right.”
– Malala Yousafzai
なんとなく、お久しぶりです。
生きていました。
これは、先日仕事帰りに召し上がったヨルゴの模様です。
今日は、休暇を取り、いつもより早くから活動しておりました。
とある勉強のために、大学に行っていたのですが、しかし、さっぱりでした。
この建物は、大変クラシックで素敵でしたが、ヒルゴを召し上がった際の食堂の天井です。
これは、そのときの壁です。
勝間和代さんの最新刊『「有名人になる」ということ』を読みました。
最新刊のうちに、感想を書いておきます。
っていうほど、最近は、次々に出版ということもなくなり、ちょっと落ち着いているので、この人(=私)としても、落ち着いて書けます。
本書は、会社を辞めて独立し、お仲間と設立された会社の事情もあって、「有名人になる」というプロジェクトに取り組まざるを得なくなったという事情が説明されます。ここ数年で起こっていた世界の経済状況が、こんな風に影響を与えていたという事には驚きました。
しかし、なんとか生活していくための経済手段を考えたときに、「有名人になる」という選択肢があったということに、考えてもみなかったなぁとこの人(=私)は思いました。
御自身の有名人プロジェクトを通して経験したこと、さらに、有名人になることによって有名人の友人・知人から教えられたことも踏まえて、「有名人になる」という経験がどんな経験で、かつ、どのような変化をもたらすのかを考察されています。
当然、変化はあるわけですが、その変化は、収入をはじめとする経済面、ソーシャルネットワークなどの人間関係面、さらに、有名人になるからこその心理状態などの内面変化についても考察され、御自身の経験や心理状態については、かなり率直に書いておられます。
一方で、友人・知人などから聞くこともあったかもしれない有名人(芸能人)暴露話のようなものはありませんので、そういうことを期待されているのであれば、本書は適当ではないと思います。
そういう点で、ゴシップ的な内容ではありません。
また、有名人業界はもとより、出版業界についても、いろいろと考えさせられることもありました。ちょっと余談になりますけど、出版業界や書店が経営がきついことについて考察した『だれが本を殺すのか』(佐野眞一著、プレジデント社、2001年)などを思い出したりもしました。
さて、もとに戻って。
一般に、言われてみれば、「なるほど、そうだね」と思うことも、誰かが言語化しない限り、言語化して捉えることはあまりありません。また、言われるまで、「気がつかなかった」と思うことも多くあると思います。
言語化して指摘されてみれば、さも当り前のことのように思えることを言語化してみる、そういう作業は、社会学者などがフィールドワークを通して、あるいは、理論を提出することを通して、これまでも行ってきたことだと思いますが、本書を読んで、社会学的な要素を感じました。
アンチファンの活動については、書評などに悪意を感じる文章が載ったりして、勝間さんが懸命に対処されているのは、この人もブログなどを読んでおり知っていましたが、悪口チャンネルというか、そういった悪意に満ちたサイトなどには、あまり近づかないため、今回初めて知ったこともありました。ひどいことを言う人がいるもんです。
最後のほうに、「鼻の穴」ということについて、言及されていますが、なぜ、そこまで言われなければならないのか、それが不思議でした。
まぁ、この人は、熱狂的な好きや嫌いがほとんどないので、そういう平坦な感情世界に生きていると、熱狂的に好きで好きでたまらないというファン心理もわからなければ、存在そのものが嫌いだ、とかいうのも、なかなか理解することが難しいのです。
そういったやや平べったい感情世界、それがいいかどうかは別として、有名になるということは、自分のことを大好きな人も増やすと同時に、大嫌いな人も増やすんだということが、よくわかりました。
このことを「ただ飯はない」と言い切れれば、有名になることに、ポジティブに果敢に立ち向かって行けるような気もしますが、そっとしておいてほしい、とか、あまりそんなに関心を持ってほしくない、という人には、とても、向いていない世界なんだなということもわかりました。
割と目立ちたがりだったり、自分に関心を持ってもらいたがる人の比率が多いだろう有名人業界でも、勝間さんの考察のように、心身のバランスを崩していく人が多かろうことは、また、そのために、何か超然とした現象や人にすがったりする人が多いことは、よく知られていることです。
反対に言えば、もともとそういう人じゃない人には、厳しい世界だと思いました。有名になりたい人の類型も興味深く拝見しました。
勝間さん御自身の申告によれば、上述に関しては、できればそれほど関心を持たれたくない性格のようなのに、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、このプロジェクト、よくここまでがんばってこられたんだなと思いました。
勝間さんとは全く関係ない話題ですけれども、最近話題の「二股疑惑」の方ですが、ネット情報によれば、それまでも、誰にでも(?)すぐに(?)「結婚しよう」と言っちゃう人だったそうですが。
しかし、大手の芸能事務所に所属しているうちは、あそこまでバッシングされることはなかったらしいです。というか、そういう情報を事務所のほうでブロックしていてくれたか、芸能マスコミのほうが大手の事務所であることに配慮して、そういう情報を書きたてなかったのではないか、最近になって、その事務所からは独立したことで、あの一連の報道が出てきたのではないかという記事を読みました。
タレント活動をするのであれば、芸能事務所に所属したほうが、そういう情報管理の点でも得らしいことは、一時すごいバッシングが起こっていた野村さちよさんの例(ひどいバッシングも、大手事務所に所属した途端に止んだとか)でも言えることかもしれませんね。
本書の中では、勝間本の売れ方とか、支持者の類型が示されているのですが、自己判断では、この人は、勝間さんのこと自体を好きかどうかについては、かなり中立です。なぜかと言えば、そういったことをこの人が判断するのに足るほどには、よく知らないからです。
しかし、ご主張やご活動の趣旨には賛成し支持かつ応援したいと思うものも結構あります。さらに、御著書に関しては、内容がよさそうだと思ったら、買ってでも読む、という立場だと思います。
で、アーリーなのか、レイトなのか、ということについては、自分ではよくわかりません。
こういった消費者としての類型、選択理論については興味深かったですし、「終わコン」については初耳で初めて意味を知りました。こういう省略形って、何を略しているのかがよくわからないので、ついていくのが大変です。
もう少し説明があってもよかったのではないかと思うのは、有名人になることによって信用が得られて人間関係が広がっていくというあたりです。おそらく、有名になることにより、自分から相手に近づいていかなくても、相手のほうから傍によって来てくれたり、知られているため、何かの役割に抜擢されたりすることにはなりやすいということはわかります。
しかし、果たして「有名人」だから信用がある、とまで、すぐに言えるのでしょうか。
言えそうな気はします。でも、それがどうしてなのか、もう少し詳しく説明してほしい気もしました。
これまで読んできた中で、初期の『インディで行こう』は、あまり出版数もおそらく多くなく、書店で見かけることもないうちに、図書館で見つけて読んでしまいましたので、買っていません。改訂してタイトルが変わったものについては、Chabo!ブックだったので、買いました。
他にも、なんだかんだで、初期の頃の御著書は結構買っては読んでいて、こう書くと、「カツマ―」なのかと思われるかもしれませんが、自分では、定義を正確に知らない以上、なんとも言えないというところでしょうか。
「戦後」が終わり、「災後」が始まる。
御厨貴 (著)
千倉書房、2011年12月刊
政治学者で、オーラルヒストリーの手法で研究されている御厨さんの、あちこちでの対談と書きおろし部分とで構成されたものです。
御厨さんと言えば、この人(=私)には、今もやっているのかどうか知りませんが、TBSで日曜朝6時からの『時事放談』の司会者として馴染みのある方ですが、司会者ではなく、学者なのでした。
最近では、震災以後の復興会議で議長代理も務めておられたのでしたが、本書では、その過程について触れながら、日本には、特に、民主党政権以後には、政治はないという「非政治」という表現での批判には、なるほどと思いました。
この会議を立ち上げるにあたり、当時の菅さんからは、方向性を示されなかったというのには、圧倒されました。
ふわふわです。
特に驚いたエピソードは、菅さんが「官僚は信用できるのですか?」と質問したというところでした。政治主導をうたって民主党で最初に首相になったのは、菅さんではありませんでしたが、それにしても、政治主導でもなんでも、一緒に仕事をする人たちを信用できるのかどうかと聞くこと自体、何かおかしいような気がします。
そういうことは、お互いに黙っていても伝わってしまうことなのではないでしょうか。
自分が信じなければ、相手も信じてくれません。
菅さんの誤り、菅さんだけではなく、民主党の首相たちの誤りというのは、政治主導を掲げるあまりに、それぞれの分野のことを詳しく知っている官僚の方々を信用して起用しなかったことにあるのではないかと思えてきました。
御厨さんは、復興会議の中でも、若手の方々の多い官僚チームの働きを評価しておられたわけですけれども、一緒に仕事をする仲間と見なすか、自分の邪魔をする敵と見なすかでは、相手の反応もおのずと変わってくるということを、一国のトップになる方は、わかっていてもよかったのではないかと思いました。
自民党政治がよかったとは言い難いかもしれませんが、それでも、御厨さんは、自民党の中には政治家を育てるシステムがまだあったというように言っておられました。
そこが、民主党との違いなのかもしれません。民主党には、今すぐに大臣になるべき人材がほとんどいません。それが、大変な問題で、今の政治状況の原因ではないかと思います。
そんなことを論じていたかと思えば、最後のほうでは(155ページ以降)、「強いリーダー待望論の不毛」と見出しをつけて、「非政治的リーダーシップ」なるものについて対談されているのです。お相手は、牧原出(東北大学大学院法学研究科教授)さんです。
ここでは、民主党には、自民党にあったような「名望家支配」がなかったが、2年半の間に政治主導を掲げて、政務次官や政務官たちがかなり必死に動き回った結果、現在では、それなりに経験を積んだ層ができてきた、それが長期的にはリーダー予備軍として考えられる、それは自民党にはなかったことと指摘しています。また、前原さんのように、多少失敗してもそれが致命的な失脚にはならずに、いまだ、総理候補としていられることもポジティブに評価されています。
民主党政権は、学級会的だという指摘もおもしろいです。全員で何かを決めようとするから時間がかかるし、さらに、根回し的なことをせずに「ガチンコ勝負」。だから、堂々巡りを繰り返すけれども、最終的にはストーリーのある収斂したものになるのだというのが、復興会議の提言に現れているのだというのです。
他におもしろかったのは、リーダーシップ論はフォロワーシップ論だという指摘です。先ほどの議論と関連しますが、強いリーダーシップを求めなくなってきているフォロワーがいるということで、これは、現在の大学生にもみられる傾向だそうです。結局、ものすごいカリスマ的リーダーを誰もが求めなくなってきている時代なのでしょうか。
すごいニュースを知りました。
昨日とは別の意味で、圧倒されそうです。
日本の大学生を勉強させるには、どうすればよいのか・・・。
こんな部会が開催されていることを、この人(=私)は知りませんでした。
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